鵜の岬へ行く途中、大洗へ立ち寄りました。
「大人の休日倶楽部パス」路線情報、長野・水戸編
どうして鵜の岬なのか? 実は90歳になる僕の母親が、寄る年波には勝てず、だいぶ足腰が弱くなっており、出不精で普段はどこへも行きたがらなかったのですが、「鵜の岬だったら行きたい」と言い出したので、まずそれを優先しました。ささやかな親孝行の真似事ですが・・・。大洗の「かあちゃん食堂」も、母親のリクエストでした(正しくは「かあちゃん食堂」ではなく「母ちゃんの店」でしたが)。
「海が見たくて大洗へ!」
と題して、このブログに書いたのは今から6年半も前のことです。
大洗磯前神社は、社殿も比較的新しく、境内もきれいでした。社殿前の鳥居からは大洗の海、つまりは太平洋の大海原ですが眼下に見渡せます。というか、海から登ったところに社殿があるということです。地元では「大洗さま」と呼ばれて親しまれている「大洗磯前(いそざき)神社」は、「大己貴命(おおなむちのみこと)」と「少彦名命(すくなひこなのみこと)」が祀られています。大己貴命は世に大黒様とも云われ、慈悲深く、福徳を授ける紙として尊崇され、少彦名命は医薬の祖神と仰がれ万民の難病を救う神として信仰されているそうです。
大洗の海は、東映の映画のタイトルバックに出てくるようなゴツゴツした岩場に、荒い波が打ち寄せるのが僕は好きなのです。その岩に先に、海に向かって小さな鳥居が屹然と立っています。海に鳥居が立っていたかどうかは分かりませんが、同じような神社に鹽竈神社があり、見に行ったことを思い出しました。
御祭神
『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になりました。里人の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、ここに当社が創建されました。翌天安元年8月には官社に列せられ、更に10月には「大洗磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜の制では明神大社に明治18年4月には国幣中社に列されました。
御社殿はかつて永禄年間の兵乱によって悉く消失してしまいましたが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄3年(1690)御造営の工を起し、3代綱篠公の享保15年(1730)に現在地に還座再興されました。社殿に施された彫刻とともに江戸初期の建築様式を今に伝えており、県指定の文化財です。