「第171回芥川賞発表」、選評を読みました。
第171回令和6年上半期 芥川賞決定発表
「サンショウウオの四十九日」新朝5月号 朝比奈秋
「バリ山行」群像3月号 松永K三蔵
第171回芥川龍之介賞選考委員会は7月17日に東京・築地の「新喜楽」で開かれました。
小川洋子、奥泉光、川上弘美、川上未映子、島田雅彦、平野啓一郎、松浦寿輝、山田詠美、吉田修一の9委員が出席して討議を行い、頭書の通り受賞を決定いたしました。
受賞作以外の候補作は次の三作品です。
尾崎世界観「転の声」(文學界6月号)
坂崎かおる「海岸通り」(文學界2月号)
向坂くじら「いなくなくならなくならないで」(文藝夏季号)
これらは2023年12月1日から2024年5月末日までの6か月間に発表された諸作品のなかから予選を通過したものです。
芥川賞選評
ここでは、「サンショウウオの四十九日」と「バリ山行」を載せることにします。
他者とリアリティ 平野啓一郎
「サンショウウオの四十九日」は、「胎児内胎児」と「結合双生児」という二つの特異な設定が、相乗効果よりも寧ろ相殺してい憾みがあった。現実に当事者が存在するマイノリティとしての「結合双生児」を、成長した「胎児内胎児」という非現実の存在と同レベルで寓話化し、思考実験の素材としてしまう方法にも疑問がある。本作のような「結合双生児」は、やはり非現実なのかもしれないが、寓話なら寓話で、一つの身体を二つの意識が共有する激しい葛藤の不在、身体的実体と遊離して論じられる意識や死の観念性、二人の意識が独立的であることの説明不足、・・・など設定のツメに甘さがあり、結果、大胆な着想の割に思想的成果が乏しく、物語も後半失速した。非凡な才能の作者だが、本作に関しては問題が多かった。
私が推したのは、「バリ山行」だった。抜群にリーダブルで、物語の足場となる文体が安定しており、人物造形も風景描写も精彩を放っている。非日常の「リアル」な舞台が、遠い彼方ではなく、六甲山という日常に隣接する場所に設置されている点は、登場人物の妻鹿と共に作者の手柄である。自然と一体感を崇高化する英雄的冒険がパロディ化され、「バリ山行」という、到達点のない、誰からも尊敬されない”愚行”が、却って魅力的に描かれている点に好感を持った。建設業界の内情も今日的だったが、ただ、ゼネコンか小さな取引先か、という会社の方針をめぐる混乱と、正規ルートかバリかという登山のあり方との重ね方はやや直接的で、そこに面白さがあるものの、「言わずもがな」の観はあった。文学的な実験性という点では、物足りなさもあるが、この完成度は立派であり、多くの読者に愛される作品であろう。
五者五様の異世界観 島田雅彦
「サンショウウオの四十九日」・・・「意識とは何か」についての考察は哲学や認知科学が得意とするところで、小説にもしばしば応用されるが、「結合双生児」の姉妹の「二心同体」における意識の様態を描くことを通じて、具体的なイメージを提起している。この姉妹や兄の体に寄生していた「胎児内胎児」だった父の設定は実際にはありえないので、「ブラック・ジャック」のような医学ファンタジーとして読まれるべきだが、同時に本作はほのぼのしたファミリー・ロマンスでもあり、マッド・サイエンス的テイストを持ちながら、ヒューモアの伏流が貫かれている。
「バリ山行」・・・修繕工事会社で働く波多は同僚に誘われて始めた登山にハマっているが、ある日、リストラ対象と噂される先輩社員妻鹿が世紀の登山道を辿らない「バリ山行」の達人と聞き、同行を頼む。会社と山の対比は、日常と非日常、組織と自然の対比であり、重ね合わせになっているのだが、登山の細部を丹念になぞったオーソドックスな「自然主義文学」をベタに書いて来たところが評価された。
選評 吉田修一
「バリ山行」何よりこの小説は攻撃的でない。自分の言葉で誰かを言い負かそうとしない。例えば、単純なことだが、相手に何か言おうとした時登場人物たちはその場ではなく、明日言おう、今度会った時に言ってみよう、と思うことが多い。このタイムラグがおそらく小説の「間」である。この「間」によって、登場人物たちはもちろん、読者もまた、今一度考える時間が与えられる。要するに、自分の言葉ではなく、相手の言葉を聞こうとする時間が持てるのだと思う。文章のリズムも素晴らしかった。妻鹿さんという人生の先輩について、一歩ずつ、時に心を躍らせながら、時に苛立ちを露にしながら、それでも一歩ずつついていく主人公の足音が読後も続くようだった。
「サンショウウオの四十九日」類まれなる発想力と最前線の専門的知識、これだけでも天からの贈りものとしては過大なのに、その上、末恐ろしいほどの小説的技法をこの朝比奈秋氏は持っている。”身体だけじゃなくて、頭も顔をくっついています。くっつく位置も場所によって少しずもしこんな書き出しの手紙やファンレターが届いたら、私はおそらく先を読まないと思う。しかし、瞬と杏という、とても穏やかで知的でユーモアセンスのある姉妹を知った今、その偏見がどれほど愚かであったかと思い知らされるだろう。本作は、面白いようにパズルがパチパチとハマっていく。ただ、少し俯瞰してみると、うまくハマりそうにないパズルは最初から埒外の放り出されており、この辺りにほんのちょっとだけ優等生の危うさを感じた。
「転の声」を推す 小川洋子
「サンショウウオの四十九日」の主人公は、二つの意識が一つの身体に宿っている。A=Bならば、B=A、という論理的に成立しない矛盾の渦中に、二人は飲み込まれている。だからこそ、そこに生じる混乱をもっと丁寧に迫ってほしかった。ただ、法要の日、川に落ちてずぶ濡れになる父親。池のそばでもう一人の存在に初めて気づく姉。百年後、土に返る伯父さんの骨。これらのシーンには、水と大地をつなぐ生命の循環が潜んでおり、壮大な可能性を秘めているのではないかと思わされた。
「バリ山行」の妻鹿さんが忘れがたい。河相社ではルールを無視して自分の信念を貫き、皆から避けられている。しかしけがをした主人公には「ナイス、波多くん、がんばった!」と思いやりに満ちた声をかける。今も六甲山のバリエーションルートを黙々と歩いている妻鹿さんの後姿が、目に浮かんでくる。
「選評」山田詠美
「サンショウウオの四十九日」。ものすごく難しい設定にチャレンジしていて、読み進めながら大丈夫なのかな?と思っていたら、概ね大丈夫だった。一つの体に二人いる結合双生児のそれぞれの視点のあわいから、ファンタジーと現実の重なりが見える。それ以外の文章に雑なところも散見するが、当事者性とは、あらかじめ別の所から始めたこのトライアルに拍手を送りたい。
「バリ山行」。登場人物二人の六甲山バリエーション登山に、必死についていくような気持ちで一気読みした。岩の苔を覆う水からあおい匂いが来るような描写。奇をてらったりしない正攻法の書き方にしびれた。いけすかない服部課長が落ちぶれてくれたようで、快哉。
出来ない 川上弘美
今回一番に推したのは、「サンショウウオの四十九日」でした。意識は二人分あるが体は一つ、という設定の結合双生児、「瞬」と「杏」という二人を描いたこの小説は、「自己とは何か」ということを、読者にたくさん考えさせてくれます。でも、作者は、たぶん最後まで「自己とは何か」がわからなかったのだと思います。この小説のよさは、わからなかったそのことを隠していないことです。
「バリ山行」も、好きな作品でした。この作者は、「サンショウウオ」の作者が出来ることが、きっと出来ない。反対に、「サンショウウオ」の作者も、「バリ山行」作者が出来ることが、たあぶん出来ない。けれど、その「出来ないこと」が、それぞれの小説を書かせてくれたのだし、書きつづけることによって、出来なかったことが少しづつ出来るようになってゆくのではないでしょうか。
対照的な二作 松浦寿輝
今回は、松永K三蔵「バリ山行」と朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」という対照的な二作に心惹かれる結果となった。
「バリ山行」は、組織のなかで居心地の悪い不安定な立場に置かれた会社員の「私」と、独立独歩を貫く変わり者の同僚の「妻鹿さん」との交流を描く。組織の方針に従わない「妻鹿さん」が好む「バリ山行」は、当然生き方の比喩となる。「妻鹿さん」への感情は、憧れと疎ましさが混じった複雑なものだ。「妻鹿さん」に連れられて「私」が行なった「バリ山行」が本作のクライマックスをなす。「バリ」を辿ることの爽快さに感激した「私」は、組織の同調圧力に屈しない強さを獲得し、新たな生き方に目が開かれる・・・といった予定調和的な美談に収斂するのかと思いきや、物語はさらに思いがけない方向へ展開する。とりたてて文学的な実験だの形式的な冒険だのを試みているわけでもない平易な作品で、わたしは本来、この種のべたな小説には点が辛いほうだが、「私」と「妻鹿さん」とのあいだに友情のきずながあいったんは結ばれかけ、しかしそれがただちにぷっつり切れてしまうこの哀切な物語には、ほろりとせずにはいられなかった。後ろ姿ばあかり見せているような「妻鹿さん」の孤独な人物像にも、登山の情景の的確でなまなましい細部にも心を打たれた。
それと対極をなすのが「サンショウウオの四十九日」で、こちらは妖しいたくらみに満ちた綺想小説。ただし、物語は変哲もない家庭団欒の情景から始まる。「娘たち」は二人いて、姉の「杏」は漢字の「私」を、妹の「瞬」は平仮名の「わたし」を主語として語る。二人の語りは交互に交替して進行してゆくが、ほどなく二人は結合双生児で、二つの人格が一つの身体を共有していることがわかる。こうした状況下で意識や欲望はどのように生成し個別化してゆくことになるのか。人格の自己同一性はどのように担保されるのか。小説ならではの思考実験をありきたりの家族の物語に溶かし込んでゆく手際はきわめて自然で、その自然さじたいが孕んでいるけれんな不自然を、読者にそくそくと体感させるところに本作の取り柄がある。「意識はすべての臓器から独立している」と「瞬」は考えるが、「人は脳で考えるわけではない」という哲学者・大森荘蔵の命題が想起される。
出色のかたり 奥泉光
「サンショウウオの四十九日」は、かたりの魅力の点で出色であった。まずは
一つの身体を共有する二人のかたり手が、「私」「わたし」の一人称で、交互に、あるいは交錯しつつかたる、その形式自体が生み出す面白さがあり、しかも二人の女性は個性を異にしながら、それぞれに溌溂とした知性や感性の輝きがあって、二つの人格の関係が織りなす豊かさが小説全体を明るく照らしている。こうした身体的状況が苦難を必然的にもたらすであろうことは、もちろん容易に想像されるわけで、それは時折露頭のように小説中に顕われる。しかし青春期の終りを意識するかたり手の女性たちは、ときに烈しい痛みや傷をもたらしたであろう対立葛藤を経て、いまは一段落、とりあえずは入り江に停泊する舟のような平穏さのなかにある。過去の、あるいは再び到来するかもしれぬ苦難は消えてはおらず、直接には描かれぬそのごつりとした手触りはなお在り続けて、小説世界に奥行きを与えている。
もう一つの受賞作となった「バリ山行」は、かたりを含め小説的企みには乏しく、しかしかたり手の男の心情と山の情景描写を、それこそバリ山行のごとく、愚直なまでにまあっ直ぐ丹念に重ねて物語を進めていく姿勢に好感を抱いた。
知見と想像 川上未映子
松永K三蔵氏の「バリ山行」のある環境と状況を粘りづよく書き、読ませる筆致は頼もしく、業界の詳細は冴えて物語を支えている。しかし山と日常の対比、異質さを感じさせる人物との関りを契機にゆらぐ意識など、構成も展開も順接に過ぎる。人生も登山も感情も、ついぞ一般ルートの常識から 離れることなく/離れられず、バリエーションルートへの嫌悪と憧れを含んだ距離を常に推し量ろうとする試みとして読めば、この作品固有の批評性も見込める。
朝比奈秋氏の「サンショウウオの四十九日」は、身体は真ん中で接合されており、容貌は左右で異なり、独立した意識を持ちながら感覚や記憶は共有される姉妹が主人公。しかし虚構の位相の構築が徹底されておらず、小説ルールに自信がないせいか、説明がくりかえされるために身体と意識を巡る一人称小説としての語りの強度が低い。また作者の自己同一性や痛みや生死への思索の浅さが散見されて、たとえば別々に感じた幸福とトラウマが「しばらくして二つの記憶は混じって、今では思い出すとマーブル模様の気持ちになる」に代表される心理描写あるいは処理が多々あり、全体を通して医師の知見で書けるところ/書きたいところと、それ以外の落差が大きく、これは人称の設定も含めた書き手の、この小説にたいする根本的な怠惰である。とはいえ候補作のなかで頭ひとつぶん抜けた挑戦のあとがあるのは確かで、誰も経験したことのない身体と精神の在り方や来し方行く末が、焼かれてしまって骨壺に入ってしまえばそうでないものもみなおなじという入れ子のささやかな着地は、この小説が書かれることではじめて結ばれる像であるように思えた。
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