カフカの「決定版 カフカ短編集」(新潮文庫:令和6年5月1日発行)を読みました。
カフカの小説は、「変身」はもちろん、「審判」とか「城」とか、読みましたね。もう50年以上前のことですが。
目次
判決
火夫
流刑地にて
田舎医者
断食芸人
父の気がかり
天井桟敷にて
最初の悩み
万里の長城
掟の問題
市の紋章
寓意について
ポセイドーン
猟師グラフス
独身者の不幸
編者解説 頭木弘樹
以下、頭木弘樹の「編者解説」による。
「判決」
日記帳にしていたノートに、たったひと晩で書かれた。「この物語はまるで本物の誕生のように脂や粘液で蔽われて僕のなかから生まれてきた」。「判決」には「Fに」という献辞がある。これはフェリーツェという女性のことだ。親友のマックス・ブロートの家で、ブロートの遠縁にあたるフェリーツェと出会ったカフカは、「もう揺るがしがたい判決を下していた」と日記に書いている。ようするに、好きになったのだ。そのフェリーツェに初めて手紙を出した気持ちの高まりのなかで書かれたのが、この「判決」だ。カフカは日記で「ぼくはこの物語を間接的に彼女に負うている」と書いている。また一方でフェリーツェの手紙では「物語の本質は、私の理解できるかぎり、貴方といささかの関係もありません」とも書いている。ちなみに、カフカはその後、フェリーツェに500通以上の膨大な手紙を送り、2度の婚約と2度の婚約解消をすることになる。
「火夫」
カフカは「火夫」もかなり気に入っていた。日記にこう書いている。「ぼくは「火夫」をとてもよくできたと思っていたので、いい気になっていた。晩、それを両親に読んで聞かせたが、この上もなくいやいやながら耳を傾けている父の前で朗読しているときのぼくよりもすぐれた批評家はいないのだ。明らかに近づきがたい深みの前に、多くの浅い個所がある」。なお、「火夫」につづけて「アメリカ(失踪者)」の他の章を書いていく途中で、「変身」が書かれる。「これは一つのすばらしい時期である彼の生涯にこれと比較される時期はわとカネッティは書いている。カネッティは、すばらしいカフカ論を書いている作家で、1981年にノーベル文学賞を受賞した。なお、カフカは「判決」「火夫」「変身」について、「外的にも内的にも一体をなしていまして、これらの間にはあからさまな、そしてそれ以上にひそやかなつながりがあり…」と出版社への手紙に書いている。
「流刑地にて」
「『流刑地にて』を朗読した。紛れもないうち消しがたい欠点を除けば、必ずしも完全には不満ではない」。これでも、カフカとしては、かなりほめてるほうだ。朗読会で、カフカが「流刑地にて」を朗読したところ、3人も失神者が出て、かつぎ出され、その後も逃げるようにして席を立つ人が続出したというのだ。「語られた言葉のもつこれほどの影響力をこの目で見たことはなかった」と、その場にいたプルファーという作家が伝えている。カフカは自作を出版するのはいつもためらったが、朗読はむしろ積極的だった。「すぐに朗読して聞かせる癖」と自分で言ってるほどだ。
「田舎医者」
「『田舎医者』のような作品なら、ぼくも一時的な満足を覚えることができる。だが、幸福とは、ぼくが世界を純粋なもの、真実なもの、不変なものに高めることができるときにのみ得られるものなのだ」。カフカは1917年8月13日に喀血する。結核だった。翌月、親友のブロートとフェーリクス・ヴェルチュに宛てた手紙にこう書いている。「僕自身がこのことを予言していたのだ。『田舎医者』のかかの血まみれの傷を憶えているかい? 」。
「断食芸人」
カフカはこの短篇についてこう書いている。「この物語もまずまずだ」。「まずまず」なら、カフカとしてはそうとう高評価だ。この短編には、断食をする芸人が出てくる。カフカは病気で亡くなる前、食事がとれなくなり、水も飲めなくなっていた。まさに断食状態だった。痩せ細っていく身体で、カフカは死の前日、「断食芸人」の校正刷りに手を入れていたそうだ。カフカは1924年6月3日に亡くなった。短編集「断食芸人」が刊行されたのは同年の8月で、その2か月後のことだった。
以下省略
フランツ・カフカ:
オーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、ユダヤ人の商家に生まれる。プラハ大学で法学を収めた後、肺結核に苛まれるまで実直に勤めた労働者障害保険協会での日々は、官僚機構の冷酷奇怪な幻像を生む土壌となる。生前発表された「変身」、死後注目を集めることになる「審判」「城」等、人間存在の不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品群を残している。現代実存主義文学の先駆者。
編者 頭木弘樹:
文学紹介者。筑波大学卒。編訳書に「絶望名人カフカの人生論」「絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ」「カフカはなぜ自殺しなかったのか?」など。