板橋区立美術館で「奥絵師・木挽町狩野家」展を観てきました。副題は「お殿さまに仕えた絵師たちの250年」とあります。
2009年11月に、栃木県立博物館で開催された「狩野派―400年の栄華―」展を観ることができました。僕にとっては初めての「狩野派」体験でした。栃木県立博物館は、開館以来、狩野派の作品をコレクションの柱として継続的に収集してきたという。狩野派は、室町時代後期から明治時代の初めまで続いた名門絵師です。その約400年にも及ぶ狩野派の歴史を狩野派画人の作品、重要文化財7点を含む、約100点が出品された大規模企画展でした。ほとんどが「東国」あるいは「北関東」という地域にゆかりのある作品でしたが、なかには板橋区立美術館蔵の何点かも展示されていました。
以下、「狩野派―400年の栄華―」図録より
狩野派の歴史は室町時代後期に小栗宗湛の跡を継いで瀑布の御用絵師となった、初代・正信に始まります。正信は漢画系の水墨画だけでなく、肖像画や仏画、障壁画など幅広いジャンルで活躍したが、続く元信はやまと絵をも取り込み、さらに画域を広げます。また元信は大規模な工房を構え、大量の作品を世に送り出します。さらに永徳の代になると、織豊政権下での大規模事業のほとんどすべてを請け負い、狩野派が画壇を制覇することになります。
江戸時代初期、徳川家による幕藩体制が確立すると、画壇も大きく変化し、探幽が登場します。桃山時代の豪快華麗な絵画様式を一変させ、余白を多くとった象徴的で叙情味あふれる絵画空間を作り上げます。この画風は時代の好みに合致し、以後の狩野派の規範になります。探幽は御用絵師としての絶対的な影響力を駆使し、全国の有力な大名の元に弟子を送り込み、狩野派による画壇制覇を確立し、以後、江戸時代を通じて頂点に君臨し続けることになります。
探幽の系譜に連なる狩野派の奥絵師や表絵師たちは、江戸時代を通じて幕府の重要な御用を請け負うことになります。なかでも探幽の弟・尚信を祖とする木挽町狩野家は最も隆盛を誇り、「江戸狩野派」を代表する名手を多く生み出します。幕末まで画壇の中心にあった江戸狩野だが、ともすれば粉本主義の象徴とされ、没個性の作品の大量生産という悪いイメージも浸透してしまいます。しかし先入観を排し、彼らの作品世界に浸ることができれば、そこには技巧を凝らした細密描写や、色彩の万華鏡、また奇抜な趣向が広がっている。彼らは単なる守旧派ではなく、進取の精神も持ち合わせていたのでした。
さて今回の「奥絵師・木挽町狩野家」展、初代尚信からの系譜をたどり、木挽町狩野派の絵師たちが250年にわたってどのような画風を受け継いできたのか。なんと橋本雅邦、最後の当主雅信の門下にいて、木挽町狩野派における絵画修行について「木挽町画所」(「国華」第3号、明治22年)と題した一文を残しています。橋本雅邦と同列には狩野芳崖が、また雅邦に続いて下村観山、横山大観、菱田春草がいます。今回出ていた河鍋暁斎は、駿河台狩野派に連なるようです。
以下、「木挽町画所」について。
画所には①子弟の教育②絵画制作③絵画鑑定の3つの役割がある。木挽町の門人は常に5、60人を下らなかった。狩野家の子弟は教師と生徒というよりは、主人と家従というほうが近い。入門する時は、年齢学力の制限はないが、町家の子弟は入門できない。入門時の年齢は14、5歳。狩野家の弟子続きのものが多く、新たに入学を望む者は藩主の紹介を要する。
絵の修学は、弟子一人につき畳2枚に絵具箪笥1個、仮張1枚を置き、夜、稽古が終わるとそこを片付けて寝具をしく。画家の子弟は7、8歳の頃から筆で簡単な形(ウリやナス)を描き、「三巻物」(惟信の花鳥山水人物36枚)と呼ばれる絵巻の模写をする。入門時には大抵ここまで習得している。
修学の順序は、臨写に始まり臨写に終わる。①「御かし画本」(常信の山水人物60枚)5巻を勉強する。ここまで1年半かかる。②「常信の花鳥」12枚の臨写に進む。これに半年かかる。③「1枚もの」(常信、雪舟、元信、永徳・・・)の模写に進む。④「探幽の賢聖障子」の模写で終わる。ここまで、10年で終わる者もあれば、20年かかって終わらない者もいる。卒業の指揮に当たるものは一字拝領の式。師の別号や名一字を賜る。
画所の規則。火の用心。師の御用以外、みだりに外出はしないこと。用事がある時以外、師の長屋に行ってはならない。酒盛り、口論、雑談を慎むこと。朝六ッ半(7時)から夜四ッ時(22時)まで横になってはならない。文人画家に交わって書画会にでることは厳禁。また、浮世絵を描くことを禁じる。
お座敷コーナー
第1展示室
第2展示室
狩野家略系図
「奥絵師・木挽町狩野家」展
江戸時代、幕府に仕えた御用絵師のうち、狩野家の中橋・鍛冶橋・木挽町・浜町の四家は奥絵師と称されました。奥絵師とは、将軍にお目見えすることもできる最高の家柄です。板橋区立美術館では、奥絵師四家のうち、とくに木挽町狩野家の歴代をたどることのできるコレクションを所蔵しています。(5代目は早世のため作品未詳。)木挽町狩野家は、狩野探幽の弟の尚信を祖とし、六代目の典信のときに木挽町にも屋敷を構え、もっとも幕府に重用されました。本展では、江戸狩野派の始祖・探幽をはじめ、木挽町狩野家の初代から最後の当主までの系譜をたどります。家元制度により受け継がれた狩野家の画風も、木挽町狩野家十代の間に変貌を遂げていることが感じていただけると思います。また、展示室の一角には本物の屏風を間近に見ることができる「お座敷コーナー」を設け、運気アップの金屏風を展示します。
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「狩野派―400年の栄華―」
図録
平成21年10月10日発行
編集・発行:栃木県立博物館友の会