井戸川射子の「ここはとても速い川」を読みました。
「ここはとても速い川」は、第43回野間文芸新人賞受賞作です。
井戸川射子の「この世の喜びよ」は、第168回芥川賞受賞作です。
書評家の倉本さおりは「生を矮小化しない語りの所作」として、文庫本の解説を書いています。以下、その解説から引用します。
表題作「ここはとても速い川」は、児童養護施設で暮らす小学生・集の視点から写し取られていく物語だ。集の一人称、そっけない関西弁で綴られる物語は、思いつくままにシャッターを切るように淡々と日常を縫い留めていく。
施設にいる子どもたちはさまざまな事情から家族と暮らすことができないでいる。集もそのひとりで、幼い頃に両親が出ていき、病気がちの祖母しか身寄りがなかったためにここで生活している。いちばん仲が良いのはひとつ年下のひじりだ。いっしょに淀川にいる亀たちを見に行くのは集にとっても楽しみである一方、もうすぐ産休に入る正木先生がひじりにだけ性的な話を聞かせようとすることに嫌悪感を抱いている。ある日、二人の基地にしようと入り込んだ二階建てのアパートで、チェーンのパスタ屋でバイトばかりしている大学生の男と知り合う。プレイ中のゲーム画面に表示されていたユーザーネームから、その男を「モツモツ」と呼ぶことにした二人は、ちょっとした計画に彼を巻き込む。
作中で大きな悲劇は起こらない。感情の発露よりも、こまごまとした発見の言葉が行間を満たしていくような小説だ。とはいえ、子どもである集たちの眼前には、ままならないことに対する不安がこんがらかった状態でひろがっている。
野間文芸新人賞の選考委員を務めた川上弘美は、次のように言う。
野間賞決定 選考委員の川上弘美氏「選考中に涙してしまった委員もいた」
スポーツ報知
新人賞を受賞した「ここはとても速い川」について、選考委員である川上弘美氏は、5人の選考委員全員が丸をつけたとし、「選考で推す言葉を言っているうちに思わず涙してしまった選考委員もいました。『保坂が泣いた!』と(笑い)」と選考委員の保坂和志氏が選考中に涙を流したことを明かした。
井戸川さんは保坂氏が泣いたことについて聞かれ、「そんな風に読んでくださる人がいるというのが幸せだなと思いました」。すると、会見場の後ろで様子を見ていた保坂氏はたまらず立ち上がり、「感傷的な涙じゃないんだよ。心の揺れなのよ。泣ける話だから泣いたわけじゃない。勘違いしないで」と声を上げた。
心の揺れ―井戸川の言葉のつらなりが象っているのはまさしくその軌跡だ。と、書評家の倉本さおりは言う。
こわいこと。いやなこと。うれしいこと。かなしいこと。わからないこと。大人と子供の境目があいまいなように、それらは明確に区分できず、生とは本来、「きれいな直線」を描くものではない。その揺れを揺れとして、kっして硬直させまいとする篤実な語りの所作に、井戸川の小説の本懐がある。
本書には井戸川の小説家としてのデビュー作「膨張」も収録されている。中心に描かれるのは、特定の住所を持たず、拠点を転々としながら生活していくアドレスホッパーと呼ばれる人びとの姿だ。しかし小説の力点は「新しい生き方」に於けれているわけじゃない。むしろ語りのまなざしは、大きなものに踏みつけにされる人びとに―世界を変えるための頭数に入れてもらえない、小さき者に注がれていると言えるだろう。