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松浦寿輝の「出口裕弘を再読する」!

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「文學界」2023年10月号の最後尾に、「遊歩遊心」というタイトルで、松浦寿輝が「出口裕弘を再読する」という文章を載せています。

 

たまたま三木三奈の芥川賞候補作「アイスネルワイゼン」を読むために購入したもの。その本の最後尾に松浦寿輝の「出口裕弘を再読する」を偶然見つけました。

 

そこには「再読する価値がない本はそもそも最初から読む価値のない本なのだ。そんな言葉があるけれど、同じ本をもう一度読み直すという行為に一種特有の興趣があるのは事実である」。そして続けて、「再読によって理解が深まるという功徳はむろんある。だが内容じたいよりもむしろ行間から、初読の昔から再読の現在までの間に流れた歳月の、すなわち自分の人生の時間の、意味、というのも大袈裟なら、香りとか風合いとかがそこはかとなく立ち昇ってくる、さらには、おれはこの歳月をこう生きてきたのかという感慨が猪突に迫って来さえする、そんなことがたしかにあるのだ」と書く。

 

松浦寿輝の本は、芥川賞受賞作の「花腐し」を読み、映画も観ました。

松浦寿輝の「花腐し」を(再度)読んだ!

テアトル新宿で、荒井晴彦監督の「花腐し」を観た!

 

「卯の花腐し」は、陰々と降り続いてウツギの花を腐らせてしまう雨のことを言うそうです。卯の花月、すなわち陰暦4月の季語です。あたりの腐臭を立ちこめさせる「卯の花腐し」には、ひたすら陰気な鬱陶しさしかありません。今の日本にはそうした雨がじくじくと降り続いているように思われると、松浦寿輝は言います。確かに「花腐し」は、廃屋寸前の木造家屋やら、蒼い光の中で栽培されるキノコやら、「幽(かすか)」で甘い時代の腐臭に覆われています。著者は、現役の東大大学院総合文化研究科教授でもあり、古井由吉選考委員は、「東大も変質した、東大教授になっても、やっぱり往生できないんでしょう。」と、冗談交じりに話したそうです。

 

「街の果て」所収の短篇「未生の火」はやはりちょっとした傑作だと改めて思う。上野池之端近くの喫茶店で見かけた女に突如魅せられ、ストーカーなどという言葉がまだ一般化していなかった時代だが、要するにそうした行為に出て、しかし結局女を見失う。中年男の内部に陰々とくすぶる生臭い性のほむらの、始末の悪い熱の火照りが、高雅と卑俗が錯綜するマンディアルグ張りの文章からなまなましく伝わってくる。そこに、世界はことごとく滅びてしまえという無根拠にして非合理なアポカリプス願望が絡む。

 

ということで、僕もネットで「出口裕弘全短篇集 街の果て」を購入しました。

 

本の帯には以下のような文章が…。

腐蝕画にような現代の魔都を舞台に、都市生活者の奇態な生存の光景を黙示録的終末の予兆を孕む文体で彫*した作品群は、圧縮された内的戦後史、小説の体をかりた散文詩でもあろう。バタイユ、ブランショ、シオランなどの約業でしられる仏文学者の「京子変幻」「天使扼殺者」「越境者の祭り」につづく第四小説集。

 

読んだのは6編の作品群の中のひとつ、松浦寿輝が推した「未生の火」のみです。

 

主人公は、家族に怪訝な顔され苛立ってテーブルを叩く。「いいかい、東の方からね、つまり都心の方から、気狂いの大集団が押し寄せてくるんだよ。今度大地震があれば百万単位の死人が出るんだ。いいね、百万単位だよ」。と言っても、家族には相手にされない。

 

上野池之端の「たつみ」という古風な喫茶店がある。経営者の苗字が「巽」なのである。中学の同期生が父親の跡を継いで「たつみ」を経営している敗戦の年に卒業して以来、ほそぼそと交際がつながっているただ一人の男である。

その巽がここ半年ほど、信じられぬほど私に対して口が軽くなった。話が弾み、私たちは二転三転のすえ気がついてみると東京壊滅説に没頭していた。

巽もまた、ごく近い将来、大地震が来て東京が溶鉱炉になると信じているのである。

 

十日ほど前、その「たつみ」で私はひとりの女に遭った。遭ったというよりも正確には見たというべきだろう。私は「たつみ」でひとりの女を見、なかば盲いるような思いをした。

斜向かいに座った女の顔を私がまともに見たのは、だから女が腰を下ろしてから少なくとも一分は経ってからのことである。私は写真集から眼をあげ、別に巽の姿を求めるでもなくぼんやりとカウンターの方を眺め、それから女を見た。女は私の夢の女だった。久しく私はあれほど理想形に近い女の顔を見たことがない。

 

後をつけた松坂屋で女を見失い、秋葉原で下り総武線に乗りこむ女の後姿をみて、近いドアをめざして走りこもうとしたが、扉は閉ざされてしまった。

 

江東区の大島団地に同年輩の友人が住んでいた。「どうした。何かあったのか。わざわざ会いにきたという顔じゃなさそうだ」「こっちの都合を言うと少々邪魔なんだが、居てくれてもいいし帰ってくれてもいい。君の好きなようにしてもらおう」「誰か来るのか」「来るよ。女が七人ばかり来る」「じゃあ帰らないよ」

ということで、どんちゃん騒ぎが始まります。

 

それにしても、出口裕弘の口跡の良いダンディな文章に籠っている、この重たるい、まだるっこい、しんねりと渋る熱のようなものが、昨今の雑誌やネット空間に氾濫する衛生的で要領のよい文章群からきれいさっぱり払拭されてしまったのは、いったいどういうわけなのか。そうした転変の劇的なさまに改めて唖然とさせてくれるのも、時節外れの再読の効能というものか、と松浦寿輝は言う。。


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