伊藤比呂美の「森林通信 鴎外とベルリンに行く」(春陽堂書店:2023年12月22日初版第1刷発行)を読みました。
2022年、
森鴎外生誕160年・没後100年――
私はドイツに渡る
ベルリンは街だとか都市だとか思っていた。
大間違いだった。ベルリンはひとつの大きな森だった。
森の中に埋没していた。
鷗外先生の隣で書き留める、私小説
「私たちが外国に行くと、人々にいわれる、ドイツから来たんですか、森がある処ですね、ドイツの森は美しいですね」と森の人は続けた。
「昔、ドイツの人々は他の国の人と同じように森の木々を切り倒した。畑地を作り、木材を使った。人々は、木々がなくなると移動して、次の森を切り開いた。やがて人々は大がかりに森の木々を伐採するようになった。そうして森は無くなった。やがて王様たちが森を作り始めた。狩り場を作るために。それからロマン主義の時代が来た。人々は思い出した、森を。自然の森を。
ロマン主義の後期、グリム兄弟たちが集めた民話には森が出てくる。暗くて、東部国屋朽木があって、藪があって、ぬかるんで、人が足を踏み入れられない、魔女や魔物がそこで生きている、人が迷い込み、彼らと出会あう」
月は出でぬ
み空には金の星
明るくさやかにかがやきぬ
森はたたずむ 黒く黙して
野にたちのぼる
白き狭霧よ 神秘のきはみ
人生と同じで、追い越し車線に
入らなければならないときはある。
だから私は、恐怖で顔をひきつらせながら、
追い越し車線に入った。しばしば入った。
そして追い上げられた。
ベルリンを発つ前日には、私は森の人と待ち合わせて森へ行った。去年の夏のあの森とはぜんぜん違った。冬の間によく雨が降り、この秋も、つねに曇ってつねに雨が降っている。それで水は土にしみ込み、土の表面には小さな草の幼い葉がびっしりと生え出している。
木の周囲に、キノコがぽとぽと生えている。傘をひらいたのは、雨で変色してしぼんで溶けている。新しく生えてぴかぴかしてるのもある。人の腕くらい大きなのもある。真っ赤な傘の、いかにも毒らしいものもある。木の幹にも、巣立ち前のツバメの雛みたいにぎっしりと体を寄せ合って生え出ている。
伊藤比呂美:
1955年東京都生まれ。詩人、小説家。
1978年、詩集「草木の空」でデビュー、同年に現代詩手帖賞を受賞。「青梅」などで80年代の女性詩ブームをリードし、1997年に渡米。2018年より拠点を熊本に移す。
2018年から2021年、早稲田大学教授を務める。
2022年6月から9月、ベルリン自由大学の研究プログラムに参加。
1999年「ラニーニャ」で野間文芸新人賞、2006年「河原荒草」で高見順賞、2007年「とげ抜き新巣鴨地蔵縁起」で萩原朔太郎賞、2008年紫式部文学賞、2015年早稲田大学坪内逍遥大賞、2019年種田山頭火賞、2020年チカダ賞、2021年「道行きや」で熊日文学賞を受賞。
2017年「切腹考」で鴎外作品に入り込み生死を見つめ論じた。ほか「良いおっぱい悪いおっぱい[完全版]」「女の絶望」「女の一生」「なにたべた?伊藤比呂美+枝元なほみ往復書簡」「読み解き[般若心経]」「犬心」「ショローの女」「いつかは死ぬ、それまで生きるわたしのお経」など著書多数。
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