芥川賞候補作、九段理江の「東京都同情塔」(新潮:2023年12月号)を読みました。
8ページから74ページまでの、長編です。
バベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。ただしこの混乱は、建築技術の進歩によつて傲慢になった人間が点に近付こうとして、神の怒りに触れたせいじゃない。各々の勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる。喋った先から言葉はすべて、他人には理解不能な独り言になる。独り言が世界を席巻する。大独り言時代の到来。
体がぼんやり反射する、浴室のよく磨かれた黒いタイルの壁面に、私はまたひとつの未来を見ている。建築家には未来が見える。建築家が見ようとしなくても、未来はいつも自分から、建築家の前に姿を現す。シンパシータワートーキョー?
拓人がベッドで休んでいるあいだの二時間ほど、私はひとりでビールをあけて、黄昏時に刻一刻と表情を変えていくスタジアムの屋根に陶然と浸っていた。その没入の仕方は、ほとんど自分と屋根とが一体化しているといってもいいほどだった。私はパワースポットのような場所にはまるで興味がないし、スピリチュアルな感性にも乏しい方だと思う。けれど、ザハ・ハディドが東京に遺した流線型の巨大な創造物からは、何か特別な波動みたいなものを感じずにはいられない。たとえ信仰心など持ち合わせていなくても、文京区の丹下健三設計のカテドラルを見れば自然と神聖な思いが湧き上がってくるように、その屋根はある種、崇高で神秘的なエネルギーを私にもたらしていた。まるでひとりの女神が、もっとも美しく、もっとも新しい言語で、世界に語りかけているかのようだ。私は彼女の話す声に耳をそばだて、時には彼女に建つべくして建ち、あるべくしてある。私はそう思う。
とはいえ、スタジアムが建てられなかった未来が、百パーセント存在しなかったわけでもない。新国立競技場の建設が白紙撤回となる可能性が報じられたのは、ザハ案がコンペで最優秀賞に選ばれ、三年ほど経ってからのことだ。忘れっぽい平均的な世間の人々はもちろん、業界内でもすっかり忘れている人は多い。けれど私は今でも昨日のことのようにあの一件を覚えていて、思い出すたびに絶対に忘れてはいけない、教訓にしなければいけない、と強く思う。ザハ案の総工事費の最終的な見積もりが「三千億円」と報道されてからの、数ヶ月にわたるバッシング。反対運動。不毛な責任の押し付け合い。
ザハ・ハディドの新国立競技場は必ず建つ。実現する。でもそれは決して、負のレガシーのようなものにはなり得ない。なぜならば圧倒的に美しいから。そしてザハ案が選ばれたのは、東京に不足する美しさを彼女のスタジアムだけが備えていたからに違いない。もしそれが建たなければ、東京が満ち足りることはない。それは建つべくして建ち、あるべくしてあるだろう。
あの闇の中に建つ塔は、独立した建築として考えるべきではないのだ。上から見下ろした時の新宿全体の景色を考慮しなくてはいけない。スタジアムのデザインとの調和を無視して塔を建築することなどできない。いうなれば塔は、南側のザハ・ハディドに対する回答でなければならないのだ。それらが二つ揃って初めて、都市の風景は完成する。つまり、彼女がどのような問いを塔に投げかけているのかを導き出すことができれば、きっと正解はおのずから姿を現す。こう考えればわかりやすい。スタジアムは妊娠中の母体であり、塔の出産を待っている真っ最中なのだ。
この後、「ホモ・ミぜラビリス 同情される人々 完全版 マサキ・セト」と、「シンパシータワートーキョ―とトーキョートドージョートーのあいだ:東京の「刑務所」タワーの内部 マックス・クライン 2030年8月」という、ゴシック体の長い論文が続きます。
無限に拡大する快楽に身を任せていると、それがやって来るのがわかった。塔の未来の幻視だ。未来は際限なく私の網膜に姿を現した。でもそれは、至極ありきたりの未来だった。たとえ建築家でなくても、巨大建築の設計をしたことがなくても、どんな人間にも予測がつく当然の未来―東京都同情塔が倒壊する未来。それは一分後にやって来るかもしれないし、百年後にやって来るかもしれない。いずれにせよ塔は倒れる。すべての建築は倒れるし、倒れることを前提に生まれてくるみたいに。塔にはあらゆる倒れ方、壊れ方が考えられる。あるいは地球の表面を覆うプレートに歪みが生じて、塔は足元からあ崩されるだろう。あるいは大きな飛来物が水平に衝突し、中心から破壊されるだろう。あるいは空から落下する兵器によって、上から押し潰されるだろう。あるいは天上から降りてくる手の一振りによって・・・。
遠い未来の論理で言えば、あらゆる建築は馬鹿げた破壊だと言うこともできる。国立競技場も東京都同情塔も、ある側面から見ればまったく道理をわきまえない、建つべきではない、アンビルドになるべきだった建築だ。人間が生まれてくることにもっともらしい理由をつける必要がないように、本来なら建築を建てるための言葉を、強いてでっち上げる必要などないはずだ。
疑問符は途切れることなく私の内部を浸し続けて柱と梁を濡らすから、応答を考えなくてはいけなかった。考え続けなくてはいけないのだ。いつまで? 実際にこの体が支えきれなくなるまでだ。すべての言葉を詰め込んだ頭を地面に打ちつけ、天と地が逆さになるのを見るまでだ。
いずれにしても、建築に対しく非常に詳しい。著者は九段理江、90年生まれの作家である。
主題が芥川賞に適しているかどうか、疑問といわざるを得ない。