松浦寿輝の「花腐し」(講談社文庫:2005年6月15日第1刷発行、2023年9月26日第2刷発行)を(再度)読みました。
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希望を失い、にわか地上げ屋となった中年男。路地裏の古いアパートに居住する奇妙な男と酒を飲めば、喪失感に満ちた過去へと意識は引き戻される。死んでしまった同棲相手や裏切られた友人。陰陰滅々とした雨の向こう側に、生の熾火は見えるか。第123回芥川賞受賞作。
タイトルに関わるところなど、ちょっとだけ・・・。
「どうせまたばらけていく、塵に帰っていくってさっきあんた言ってたろ」と栩谷は言った。
「ああ」
「ばらけていくんだろうさ。そりゃあそうだ。しかしなあ、物がくずれる、ぶんかいするっていうならそれはそれだけのことだけどなあ、生き物がばらけてくっていうのは、分解してゆくっていうのは、つまりは腐るっていうことだろう。腐敗、腐爛だろ。猫の屍骸に蛆虫がたかって…。いやらしいにおいが充満して…。そうそうご清潔には事は運びやしないだろう」すると井関はふんと鼻を鳴らして、
「清潔なんて誰が言った。そりゃあ、あんたの方だろ、ご清潔な人生は。俺なんぞ、まさしくキノコと黴にまみれて生きている人間だぜ。腐るっていうことについて、あんた、いったい何を知ってるの」栩谷はむらむらっと気が昂ぶり、またこの小男の胸を思いきり突いてみたい気持ちになったが、それを押し殺してできるだけ平静な声音で、
「四十代も後半に差し掛かって、多かれ少なかれ腐りかけていない男なんているものか。とにかく俺の会社は腐ったね。すっかり腐っちまった」
「いやらしいにおいを立てて」
「そうそう」と、あの福井に逃げた友達のことを考えながら栩谷は言った。しばらく黙って二人は煙草をふかしていたが、やがて伊関が、
「卯の花腐し・・・」と呟いた。
「何?」
「ウツギの花も腐らせるってね。さみだれっていうか、今日みたいな雨のことを言うんだろう。春されば卯の花腐し・・・って、万葉集にさ」
「へえ、そうかね、あんたは妙なことを知ってるね」
「万葉集は面白いぜ。俺、何日もぶっ通しでコンピューター弄くってて、いい加減うんざりすると万葉集読むのよ。何しろ新宿が、いや東京全体がただの野っぱらだった頃の色恋沙汰の話だからなあ。のどかなものよ。でかい面した役人もいない、コンピューターのエンジニアもいない、そういう時代のなあ、まあ、その頃だってホームレスはいただろう。キャバクラの女の子みたいなのだっていただろう。でも、こういう巨大なお化けみたいのはまだなかった」遺跡は両手を肩の上まで上げて指をひらひらさせた。
「うらうらに照れる春日にひばり上がり・・・。春されば卯の花腐しわが越えし・・・。腐るって言ったってみやびなものよ。あの頃はね。でも、こういう巨大お化けが腐っていくっていうのはね、凄いことになるよ」
「凄いかね」
「ああ、凄い、凄い。もの凄い悪臭が出る。鼻がひん曲がるようなにおいを立ててぼろぼろ崩れていくんだよ。面白いじゃないか」
ぼろぼろに崩れていくのか。そうか。雨にうたれ、ぐっしょり濡れて。あの晩以来、たしかにしこりは残り、何日間か互いの物言いが多少はよそよそしくなりはしたものの、それでも栩谷は祥子が愛しかったし、「そうか」のひとことで、そしてそのまま黙りこむことで、彼なりにとりあえず綻びを取り繕ってみたつもりだった。祥子の挙措にとりたてて変化はなかったが、綻びは結局縫い合わされなかったのだろうか。傷口は膿んで爛れていったのだろうか。その晩からほんのひと月も経たぬ頃ちょうど盆の休みになり、ちょっと疲れてたし、田舎に帰って親の顔を見てくるわと弱々しく微笑んで祥子は発ってしまい、それが祥子の顔を見た最後になった。
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