辺見庸の「月」(角川文庫:令和3年2月25日初版発行)を読みました。
「月」を読む前に、映画の方を先に観ました。
原作と映画はまったく別物といっていいでしょう
あなた、こころ、ありますか?
実際の障がい者施設殺傷事件に想を得た、
人間存在を揺るがす衝撃作!
「月」はこうして始まる。
ふと目がさめる。まぶたがひらいたまま、目がさめる。みえない。とくになにも。いつもどおり、ごくうすく、とてもやわらかそうな、マスカットグリーンのとばりだけ。それはあるのか。ほんとうは、ないのか。そのどちらでもないのか。目のそとか目のなかか。膜らしいものがはてしなくひろがっている。やさしそうな、うす膜。かすみといってもよい。均質で、おだやかな、半透明の視界。そのむこうに、なにがあるのだろうか。みたことはない。なのに、みたことがあるとおもっている。マスカットグリーンの膜のむこうには、マスカットグリーンの膜のむこうだけがある。どこまでも、涯なんかない。きれめもない。変化なし。わたしは、いた。あたしは、いる。まだ、いる。在る。そのことに、ちょっとだけ気おちする。ほんのちょっとだけ。たいがい馴れている。どんなことにだって、馴れる。ほんとうだ。たいしたことじゃない。たいしたことなんかない。
ベッドにひとつの”かたまり”として横たわり、涯てなき施策に身を委ね続けるきーちゃん。世話をする施設職員のさとくんは、ある使命感に駆られ、この世の中をよくするため凶器を手に立ち上がる――。社会に蠢く殺意と愛の相克、「にんげん」現象の今日的破綻と狂気を正視し、善悪の二項対立では捉えきれない日本の歪を射貫く。実際の障がい者施設殺傷事件に想を得た、凄絶なる存在と無の物語。解説・石井裕也
石井は言う。
「月」は、ごく簡単に言ってしまえば、僕のこれまでの文学体験のどれとも似つかない、まったく特殊の、異様なほどの熱気と殺気に満ちた傑作だった。
この小説は、きーちゃんというひとつの「かたまり」の想念から始まる。敢えて名状するなら「重度障害者」なのだろうか。この物語のきーちゃんは性別や年齢は不詳。目が見えないし歩けないどころか、上下肢ともにまったく動かない。そんなきーちゃんの散り散りで切れ切れでバラバラの言葉(思い)と共に、読者は実体のない想念の海を漂わされたり、想念の空を塵のように浮遊させられる。
辺見庸:
作家。1944年、宮城県生まれ。早稲田大学文学部卒。70年、共同通信社入社。北京特派員、ハノイ支局長、編集委員などを経て96年退社。この間、78年、中国報道で日本新聞協会賞、91年、「自動起床装置」で芥川賞、94年、「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞受賞。2011年、詩集「生首」で中原中也賞、翌12年、詩集「眼の海」で高見順賞、16年、「増補版1★9★3★7」で城山三郎賞受賞。ほかの著書に「赤い橋の下のぬるい水」「ゆで卵」「永遠の不服従のために」「死と滅亡のパンセ」「いま語りえぬことのために 死刑と新しいファシズム」「水の透視画法」「青い花」「霧の犬」など。
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