川上弘美の「蜃気楼の牛」を読みました。文學界9月号に掲載された作品です。芥川賞候補作が掲載されている場合以外、ほとんど文芸誌は読まないのですが、たまたま朝日新聞の文芸時評で古川日出男が川上作品に触れていたので興味を抱き読んでみました。
朝日新聞:2023年8月25日
川上弘美の「蜃気楼の牛」、わずか10頁に短い作品です。
10才になった。10才は、たいくつです。 2月5日 ちさ
白い画用紙には、そう書かれていた。画用紙は折り畳まれて、里見宛ての封筒の中にあり、横書きの緑色の色鉛筆の文字の下には、紫と黄色を使った抽象画のような絵も描いてあった。2月5日 ちさ、という日づけと署名だけが、ふつうの鉛筆で書かれていた。定規を使ったかのごときかくばった文字は、ちさの母親である成見の書く字と、よく似ている。成見は、16歳の時にちさを産んだ。そしてその10か月後、成見は失踪した。
里見は、成見の、二歳離れた姉だ。成見は学校嫌いで、ちさを産む前に通っていた私立高校には、ほとんど行っていなかった。ちさを妊娠したのは、成見が高校一年生の一学期で、夏休みが明けた二学期に、成見は高校を退学した。出産予定日は二月で、里見の第一志望の大学の試験日と同じ日だった。初産は予定日よりも遅れることが多いと、二人の母である聡子は言っていたが、成見はきっかり予定日にちさを産み、里見も予定どおり志望の大学を受験した。
成見を里見の実家は群馬県にあり、聡子は県内の大学に二人を進ませたがっていた。偏差値が比較的高く実家からは通学圏内の大学に進学し、卒業したならしばらく勤め、結婚をして専業主婦になる。それが、姉妹、ことに勉強が比較的得意だった里見に対する、聡子の希望だった。
里見が東京の大学に合格し、成見がちさを産んだ二月は、とても寒かった。・・・三月、里見は父の徹也と二人で東京に行き、住まいを決めた。八王子の小さなアパートのまわりは畑だらけで、群馬の実家のまわりよりもずっとのどかな雰囲気だった。卒業したら、家に帰ってくるんだぞ。徹也は言ったが、、かなりうわの空な口調だった。母親の君臨する家庭における父親の立つ位置の常である通り、徹夜の家庭での存在感は非常に薄かった。はい。里見は答えた。帰らないと思うけど。と、心の中でつぶやきながら。
里見が大学一年生になった四月、成見はあらためて通信制の高校に入学しなおした。週に一度の登校日のほかは、実家で聡子とちさと過ごし、勉強をし、ちさを育て、聡子から家事を習い、以前は染めていた髪も黒く戻し、聡子によれば、ようやく成見も落ち着いてきたみたい、成見は仕事をするより家庭に入ったほうがいいと思うのよね、高校を卒業したら、すぐにお見合いさせようと思っているの。ということだったが、十二月、クリスマスの少し前に登校日に、成見は高校に行くと言って家を出て、そのまま帰ってこなかったのである。
成見が失踪したのち、ちさは、祖父母である聡子と徹也に育てられた。里見はのちに知ったのだが、ちさは成見の長女としてではなく、父母の三番目の娘として届け出をなされていた。最初からちさは成見の娘ではなく里見と成見の年の離れた妹、ということになっていたわけだ。ちさの父親が誰だか、成見は決して言おうとしなかった。
東京の大学に入学した里見は、ほとんど実家に帰ることがなかった。だから、ちさとも、里見は数回しか会っていない。それなのに、ちさは小学校に入るとすぐに、ひと月に一度ほど、里見に便りをよこすようになったのだ。
最初にちさからの便りが来たのは、ちさが六歳の時、里見が二十四歳になっていたから、里見が東京で就職してから二年目ということになる。大学時代に住んでいた八王子のアパートは引き払い、浅草駅に近い小さなマンションに住んでいた里見のところに、ダイレクトメール以外の郵便物がくることは、めったになかった。だから、ポストの中に葉書を見つけた時、里見は少し驚いた。
葉書には、ひらがなの鉛筆書きで、けさ いった ちさ と書いてあった。意味がまったくわからず、めったに連絡しなくなっていた実家に、里見はその夜久しぶりに電話をしてみた。ちさちゃんから、葉書がきました。ちさちゃんが葉書を出したことは、知っていますか? 電話口で里見がそう言うと、聡子はすぐに、知っているわ、と言った。だって、宛名は私が書いたんだもの。もちろんそのことは里見にもわかっていた。達筆の聡子の字を見た時、里見は痛いような気分になったから。書き文字は人となりを表すよね。大学時代に里見と一年ほどつきあっていた亘は、いつも言っていた。実は里見は、亘の書く文字を見て亘を好きになったので、その言葉を聞いてどぎまぎしたものだった。
ちさからの初めての葉書は、里見が亘と別れてから数年後に届いたのだった。ちさちゃんは、自分で葉書を出したいって言ったんですか? 里見は母に聞いた。そうよ、里見のことをそんなふうに意識していたなんて、びっくりしたわ。何回かしか会っていないのに。返事は、書かないと思います。里見が言うと、聡子は、そう? と言った。元気にやっている? 野菜は食べている? 続けて聡子が聞くので、里見は、はいと答えた。それから、そっと電話を切った。
漢字を少しずつ覚え、語彙もふえてゆくにつれ、ちさの葉書のなかみは、たとえば、あさって、山にのぼって、小さなクラゲをさがす。十二月十二日 ちさ。ひろったボタンは、またすてる。九月三十日 ちさ。というようなものになっていった。ちさは、少し妙な子なのだろうかと、手紙を読むたびに里見は思ったが、それ以上ちさについてどう考えていいのか、まったくわからなかった。そもそも里見は、ちさの顔も、うまく思いだせなかった。
ちさはふだん、ほとんど喋らないということは、聡子から聞いていた。まだ里見が大学に通っていたころ、ちさのことで聡子が一度、里見に電話をかけてきたことがある。聡子が里見に何かを相談したことは、それまでほとんどなかった。だから、聡子がちさについてかなり不安に思っていることは、里見にもよくわかった。病院に行くのもいいかもしれないですね。結局そんな言葉で、里見は会話をにごした。なぜ里見は、そういう他人行儀な言葉づかいをするの。聡子が突然言ったので、里見の体は一瞬かたまった。里見は、あ、そうかなあ、ごめんなさい。とだけ、言った。
聡子がちさのために里見の住所の宛名を手紙に書いてやったのは、ちさが二年生になるまでで、三年生になってからは、ちさは自分で里見への宛名を書くようになった。聡子は、時おり電話をしてきて、ちさは、今でもずっと毎月里見に手紙を出しているの? と、里見に聞く。うん、来ますよ。里見がそう答えると、聡子は少し笑う。里見の他人行儀にも慣れたわよ。時々は、実家にも帰っていらっしゃい。はい。そう答えながら、今度のお正月も群馬には帰らないだろうと、里見は思う。
今まで、ちさに返事を返したことは、ほとんどなかった。お正月だけは、毎年聡子と徹也宛てに実家へ年賀状を出すのと一緒に、ちさ宛てにも別に一通、年賀状を書くことにしていたが。ちさが一年生だった時に、最初にちさに出した年賀状には、二日間悩んだすえ、あけましておめでとうございます。東奔西走と、里見は書いた。書いてから、読みがなも、つけ加えた。
成見に似た女性と遭遇するたびに、里見は、ちさに会わなければ、と思う。成見は、絵を描くのが好きだった。鉛筆でていねいに下書きを志絵具で彩色したアニメーションの主人公の絵を、中学生のころ成見が里見にくれたことがあった。ありがとう。でも、わたしたち、観ている世界がちがうんだね。里見が言うと、成見はぽかんとした。