第169回芥川賞候補作、千葉雅也の「エレクトリック」を読みました。
これが候補作4冊目になります。
性のおののき、家族の軋み、世界との接続――。
『現代思想入門』の哲学者が放つ、待望の最新小説!
1995年、雷都・宇都宮。高2の達也は東京に憧れ、広告業の父はアンプの製作に奮闘する。父の指示で黎明期のインターネットに初めて接続した達也は、ゲイのコミュニティを知り、おずおずと接触を試みる。轟く雷、アンプを流れる電流、身体から世界、宇宙へとつながってゆくエレクトリック。新境地を拓く待望の最新作!
文芸夏号の文芸季評に、水上文が「たったひとり、私だけの部屋で」を書いています。
単なる事実ではない、すでに知り得た物事によって補完されて理解されるのではない、他ならない小説らしさを持った小説―作家として活動するより以前から哲学者/批評家として知られていた作家による最新作「エレクトリック」(「新潮」2月号)は、これまでの作品のどれよりも「小説」としての存在感に到達した作品である。
三人称を用いて描かれるのは、父と息子の関りである。息子が幼い頃には「英雄」らしい存在感を放っていたはずの父の権力の綻び―母の機嫌を損ねまいとする父の努力、経営者としての父が直面するを随所に感じ取りながら、息子は同時に自らのセクシャアリティへの自覚を掴んでいく。インターネットの接続によってゲイサイトに出入りするようになり、父のスタジオでAVを見てセックスを目の当たりにしてマスターベーションを試み、ネットで知り得たハッテン場に関する知識をもって見知っていたはずの景色を塗り替える。だがいかのもわかりやすい「物語」として父からの自立を示すよりもむしろ、最も危機的な時に非現実な奇跡を最終的に配置することによって、それはむしろ小説としての理不尽なまでの説得力を得る。「無限小」を飛び越えたのだ。
以下は、マーサ・ナカムラの書評「電気と幽霊」です。
「電球のような真空管は上部にかすかなオレンジの光が灯り、その周りに箱形や筒状のパーツが肩を寄せ合って、小さな都市を成している。真空管アンプは、ビル街に似ている。」
アンプの上に広がる世界は、『エレクトリック』の主人公・志賀達也が暮らす栃木県宇都宮市の風景と重なる。1995年、達也は県内トップの男子校に通う高校二年生で、いずれは大学進学のために上京することを強く望んでいる。それでも、東京駅へと繋がる宇都宮駅には何か不穏なものを感じている。広告業を営む父は、会社存続の手立てとして「ウェスタン・エレクトリック」というヴィンテージのアンプ製作に力を注いでいる。達也は敬意を持って、父の仕事を傍から眺めている。
本作品の語り出しはとてもユニークだ。「ハンドパワー」を語る、1995年にお茶の間を風靡したあのマジシャンの手品から始まる。そうして、この冒頭が物語の展開へと影響を及ぼしているようにも見える。
これは手品の話ではない。この作品のキーワードとなるのは「電気と幽霊」の関係だ。
「『そのシンバル、そこ!』/達也の父はよく、試聴しながら、スピーカーの間に囲まれた空間の、どこかの一点を指差した。(中略)ウェスタンのすごさは、音楽を聴かせるというより、幽霊を見させることにある。」
完璧なアンプは、過去に叩かれたドラムの音を、まるで幽霊のように聴衆の前に出現させる。父と野村が仕上げたウェスタンのアンプは、次第に達也の日常に「あるはずのないもの」を見せるようにすらなる。最高傑作に仕上がった二人のアンプは、幽霊を出現させる媒介としてではなく、まるでそれ自体が幽霊かのように神出鬼没となって現れる。
『エレクトリック』に登場する「電気と幽霊」のモチーフはアンプだけではない。インターネットが自室に引かれたことで、達也はゲイサイトを覗き見るようになる。初めて見る「生きている同性愛の世界」に感動しながらも、実際に達也が眺めているのはコンピューターの画面で、画面の向こう側で言葉や文字を発しているのが人なのか、コンピューターなのか幽霊なのかも分からない。
「雷都」の異名を持つ土地で、子ども時代の暗がりを強調するような雷の光。作品中には、雷光が効果的なタイミングでやってくる。それは登場人物たちの一瞬を切り取る、ストロボの役割も果たしている。
まあ、読後、よくできた青春小説、だと思った。
テーマが、いかんせん芥川賞には合わないように思いました。
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