今月の100分de名著は「林芙美子 放浪記」です。
プロデューサーAのおもわく
「私は宿命的な放浪者である。私は古里をもたない…したがって旅が古里であった」という印象的な冒頭部から始まる小説「放浪記。明治・大正・昭和を駆け抜けた人気作家・林芙美子(1903-1951)の自伝的小説です。飢えや絶望に苦しみながらも、あっけらかんとした明るさを失わず、したたかに生き抜く作者の姿が人気を博し、ベストセラーになった名著です。この作品を「悪の魅力」「容赦ない男性批判」「女たちの絆」「真に自由な生き方とは」といった様々なテーマから読み解き、新たな魅力を掘り起こします。
「放浪記」といえば、菊田一夫脚本・森光子主演で舞台化され2000回を超える公演数を記録したことでも知られます。が、原作を読むと、まるでイメージが異なることに驚かされます。明るさを失わない健気な主人公の人柄はどこへやら。描かれるのは、あくなき欲望や家族のしがらみ、愛するものへの妄執など、どんなに偉ぶったところで、誰ひとりとして避けては通れないという人間の赤裸々な姿。それらに翻弄されるのが人間の宿命ならば、突き放して俯瞰し、苦さも含めて味わってみること。芙美子は、日記的な手法で、欲望やしがらみに翻弄される人生の悲喜劇を描き切り、人間の浅ましさ、愚かさ、滑稽さを浮かび上がらせていきました。そして、作品の裏側には、極太のメンタルで人生を痛快に生き抜く、林芙美子の逞しい生命力が脈打っています。
番組では、作家の柚木麻子さんを指南役として招き、「放浪記」の魅力を分り易く解説。現代の視点から光を当て直し、これまでにない新しい林芙美子像に迫っていきます。
第1回 「悪」の魅力
数奇な運命によって幼少期から放浪の旅を余儀なくされる林芙美子。ある時は安月給で酷使され、ある時はセクハラまがいの扱いを受け、更には男女関係の泥沼にはまり続ける女友達の姿に直面する。相次ぐ不条理に対したとき、彼女の中に発動するのは「悪」。「富士山よ!/お前に頭を下げない女がここにひとり立っている」という詩に代表されるように、痛快なまでにあっけらかんとした悪罵、怒り、憤り。彼女の言葉は、暗い世相を生き抜く庶民たちの声にならない心の叫びと共鳴することで読者たちを鷲掴みしたのである。第一回は、林芙美子の人となりや執筆背景に触れながら、「放浪記」に描かれた「悪の魅力」に迫る。
第2回 お人好しの嫌われ者
「放浪記」には、女たちを食いものにする情けない男たちが数多く登場。芙美子は、舌鋒鋭く彼らの行状を暴き立てる。持ち込まれた原稿を自分の作品として発表する詐欺師的な編集者、愛人を作りながらも嘘をつき続け金を貢がせる新劇俳優、言うことをきかせようと暴力を振るい続ける詩人…等々。そんな苦境の中で、支えになるのは、女友達との友情と絆。時ちゃん、ベニちゃんといった女友達と、ある時は励ましの言葉をかけ合い、ある時は生活を共にし、厳しい状況を乗り越えていく。第二回は、「放浪記」を彩る女性群像、男性群像にフォーカスし、その中で浮かび上がってくる「お人好しで嫌われ者」という二面性をもつ林芙美子の魅力を浮き彫りにする。
第3回 旅と食で生き返る
芙美子は、「放浪記」の印税を得ると、あらゆる束縛から抜け出すかのごとく世界へと旅立つ。とりわけパリの街で得た全き自由は、彼女を虜にした。フランス料理に目もくれず自ら白米を炊き下駄で歩き回るパリ生活は痛快だ。しがらみから離れた「旅」が彼女に生きる力を取り戻させる。「食」も芙美子の活力の源だ。「放浪記」続編でも、芙美子の食欲が炸裂。おいしいものへのあくなき渇望は、彼女の文学を豊かに彩る。第三回は、「放浪記」に合わせて「下駄で歩いたパリ」等の作品を読み解くことで、林芙美子が「旅」と「食」から何を得たのかを見つめていく。
第4回 「女流文学」を解き放つ
戦後も旺盛な執筆活動を続ける林芙美子。「晩菊」「浮雲」は名文で名高い。その一方で、若手には負けないとばかりにエッセイ、食レポなどを貪欲に引き受け続け、プライベートでも型破りで奔放な私生活を送る。誰もが一目を置く有名作家になっても「成熟」という言葉は彼女には全く似合わなかった。体の不調をおして「食べ歩き」取材を二軒はしごした夜に心臓発作で亡くなる芙美子。彼女は最期の最期まで「わきまえない」生き方を貫いた。第四回は、「女流文学」という枠にはまることなく、自分を貫き通した痛快な作家人生を振り返る。
朝日新聞:2023年7月3日