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講演会シリーズ第3回「わが国の近代建築の保存と再生 大正の近代建築」その1

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武庫川女子大学東京センター主催の講演会シリーズ「わが国の近代建築の保存と再生」へ行ってきてきした。第3回の今回は「大正の近代建築」というタイトルが付いています。プログラムは以下の通りです。

13:00 開会   

13:00~13:10 趣旨説明・進行 

          岡崎甚幸 武庫川女子大学 建築学科長 京都大学名誉教授

13:10~14:30 石田潤一郎 講演 京都工芸繊維大学教授

           「明治から大正へ:転換期の近代建築」

休憩

14:40~16:00 田原幸夫 講演 建築家/ジェイアール東日本建築設計事務所

           「東京駅赤レンガ駅舎:保存と復原のデザイン」

16:00 閉会

閉会後~16:30 東京駅赤レンガ駅舎 外観の見学と解説

           案内・田原幸夫(建築家/ジェイアール東日本建築設計事務所)

           丸ビルより工事中の駅舎を見て、流れ解散


「明治から大正へ:転換期の近代建築」

石田潤一郎 講演 京都工芸繊維大学教授


明治建築の特徴は、姿勢としては西洋直写、形態においては歴史様式、技術においては組石造・木造を基盤、「建築」の性格付けとしては実学志向、中心的な課題は公館、邸宅、大企業の社屋、である。それに対して、大正建築は、目指すべき方向の一つに「日本」の固有性が加わる、造形言語にアールヌーヴォー以降の新造形が加わる、鉄骨造、鉄筋コンクリート造が普及する、建築が工学だけでなく「芸術」として位置づけられ、自己表現の方向と見なされるようになる、貸事務所、小住宅、都市計画が重要視されるようになる。


明治建築の到達点として、様式規範の血肉化、すなわち一般的に1900年前後から、様式的な破綻が目立たなくなり、室内空間の質も向上します。東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)で学習の完了を自任します。また煉瓦造の補強法、碇聯鉄(ていれんてつ)構法を開発し、鉄骨構造との組み合わせを開発します。そして、技術としての建築から芸術としての建築へと移行します。形態の操作に習熟するだけにとどまらず、西洋の建築文化の歴史を踏まえて様式を選択し、展開を図る域に達しはじめます。一方、建築の理論的把握への取り組みも、実学一辺倒からの脱却が進みます。明治27年まではある程度実を結んでいた「造家」という名称から、もう少し幅の広い名称、「建築」へと変わっていきます。



新技術の波及がめざましく急速に進みます。鉄骨構造は、1900年前後からレンガ造の補強材として普及、1909年の丸善で純鉄骨構造が実現します。鉄筋コンクリートは、橋梁や煙突などから採用され、梁や床版など部分的には広く使われていたが、全面的なRC造は1910年代半ばまでは少数にとどまります。実例としては、丸善書店(1909年、佐野利器)が最初の純鉄骨造の建築です。鉄筋コンクリート構造としては、京都の梅小路機関車庫、渡辺節が国鉄時代に担当したものです。また旧山口銀行京都支店(1916年、辰野片岡事務所)があります。

世界的ににて、新造形が波及しはじめます。ベルギー、フランスでアール・ヌーヴォー、ドイツ、オーストリアでゼツェッション(分離派)が出現します。アール・ヌーヴォーは工芸の世界では普及しますが、建築では短命でした。一方、ゼツェッションは1910年前後に大流行をみます。日本ではアール・ヌーヴォーの情報は早くからリアルタイムで入ります。19世紀建築の行き詰まりは認識していました。その点でアール・ヌーヴォーは日本美術の影響も強調され、革新性は理解されていました。しかし、材料の特性としての不適合や、造形の恣意性などから必ずしも高く評価されなく、1912年頃には建築での流行は終息してしまいます。


ゼツェッションもわずかに遅れて影響が現れます。構造を率直に意匠に表した造形として高く評価されます。日本の伝統との親和性も強調されます。1912年頃からはアール・ヌーヴォー否定、ゼツェッションの高評価という構図が定着します。1914、5年には、一般的な工芸の分野でも大流行します。実例としては、葛野壮一郎の1905年度東大卒業設計オペラハウスがあります。欧米を巡歴した、外遊経験を生かした建築が出てきます。住友銀行川口支店(19903年、野口孫市)や、個人住宅ではマッキントッシュ風の伊庭貞剛邸(1904年、野口孫市)、福島邸(1907年、武田五一)があります。また外遊経験はないが、イスラム風モチーフの山元藤助商店(1909年、設楽貞雄)があります。日本工業倶楽部は横河工務所により1920年に建てられた、ゼツェッション様式の建物です。



19世紀は民族性とその文化的特徴が強く意識されてくる時代です。ヨーロッパ諸国はそれぞれに民族性を建築に表出します。例えば、マンサード屋根(腰折屋根)はフランス的で、反転曲線の多い屋根はドイツ民家に由来します。日本では奇妙な屋根を載せた建築の案を外国人建築家が提出します。コンドルの「唯一館」やエンデ・ベックマンの「和七洋三の奇図」、こういうのは止めて欲しいという声も出ます。日本人建築家の試みとしては、和風を基本として構成だけを西洋建築に習った奈良県庁舎(長野宇平治)、御殿建築をバロック的な骨格に再編した日本勧業銀行(武田五一・妻木頼黄)などがあります。


佐野利器は「洋風建築の新風味」(1910年)のなかで、以下のように述べています。「分離派(ゼツェッション)の建築家は努めて淡雅清素を根本義として無用の華飾を去ろうとした。(中略)日本人のしゅみとは大分似ているではないか。(中略)分離派の建築は或意味で日本趣味を煉瓦造によって表そうとしたものといってもよいのである」と。また伊東忠太は「セセッションに就いて」(1912年)で、「このセセッションが我が国に於いて歓迎せられるべきは当然である。元来東洋趣味を摂取して造ったものだから東洋の本場で嫌われるはずがない」とまで言っています。その頃、国会議事堂を建てるという国家的事業が進行します。1908年には辰野金吾や伊東忠太は「議院建築の方法に就いて」を提出、コンペを主張します。1910年に「我が国将来の建築様式を如何にすべき乎」が討論会の議題になります。


西洋歴史様式の習熟という目標は達成しました。次の新機軸には日本も参加、民族的表現という新しい課題が出されます。実例としては、辰野式とイスラム建築を併置した伝道院(真宗信徒生命保険会社)(1912年、伊東忠太)、当時、よくこんなことをやったと評判になった東京帝国大学正門(1912年、浜尾新基本構想、山口孝吉実施設計)があります。また東京美術学校本館(1913年、古宇田実基本設計、鳥海他郎実施設計)、山口県庁舎(1916年、武田吾一)、日清生命(1917年、原案橋本舜介)、明治神宮宝物殿(1921年、大江新太郎)があります。



しかし、日本的なものが求められなくなり、重要性がなくなります。つまり、社会的な要請が希薄になる。折衷主義の原理から離れられない、コンペの結果に対する自己嫌悪が出てきます。次第に想像と個性表現を求めるよいになります。構造や材料の適合性や、日本伝統との親和性が課題になります。武田五一は「アール・ヌーボーとセセッション」(1912年)で次のように述べています。「自分がセセッション式を好む所以というのは(中略)従来の因習に由らず自由自在に真意を試み得るの自由を許す点である」。


最近はこういう考えは出てきませんが、ラスキンの「建築の七燈」に述べられている「建築上の虚偽」、倫理主義的な様式批判が出てきます。岡田信一郎は「フィリップ・ウェッブの死」で、「居住の目的をも忘れて外形のみのあくせくする建築家にウェッブに恥じよと云いたい。含蓄のない、荒組な意匠を装飾で蔽い隠そうとする建築家にウェッブに恥じよと云いたい」とまで述べています。後藤慶二は対談の中で、「自己人格の修行と自然科学の修得と並びに情緒や感覚の精錬と云うようなことが我々の勉強でしょう」と語っています。


司法省技師だった後藤は、豊多摩監獄(後の中野刑務所)の設計を担当、監獄建築というパターンに沿って計画するのではなく、自分の内面からの新しい構想、それも「家」という、常識を覆す発想から設計を進めたという。スケッチを見ると「赤い家」として、その建築を捉えていたことがうかがわれます。松井貴太郎は「建築時言」(1916年)で、新しい動向に流されてしまう自分のことを、あるいは建築界のことを、美文で赤裸々に書いています。「或時は花の如き優婉なヌーボーに憧憬し、また或時は瀟洒たる澳太利のセセッションに心酔し、次には堅実なる近代英風に左袒し、又翻っては豪宕たるモデルネ、クンストに嘆賞の声を発し、又翻っては国粋の美に帰れと呼ぶ、その変わることの余りに早き、又余りに多き、吾人自身に於いても如何に確固たる自信に乏しきかに驚かざるを得ない」。



ゲオルグ・ラランデの作品、高田商会(1914年)、朝鮮ホテル(1915年)。チェコ人建築家ヤン・レツルの作品、広島県物産陳列館(原爆ドーム)、聖心女子大学正門(1909年)。ユーゲントシュテルをふまえた「豊多摩監獄」(1910-1915年、後藤慶二)、北ドイツの影響が明らかな旧京都中央電話局上分局(1924年、吉田鉄郎)、ドイツ風な形態の大阪市立工芸学校本館(1925年、矢木英夫)。その頃、第一次世界大戦後のバブルで、好景気が続きます。都市へ多くの人が流れ込み、地価が上がり、消費者物価も上がり、賃金も上昇しますが、米騒動が起こります。


建築界も新しい問題の直面し、考えなければならない問題も浮上します。片岡安は「同窓建築技術者に告ぐ」(1916年末)として、次のように檄を飛ばします。「建築は・・・実社会の活動舞台に於ける花形役者である。殊に近代の経済偏重主義・都会偏重主義等の傾向に処しては、堅実なる最新式の建築は万端の業務の中核をなすものであって、之を除外しては万事その存在を失うのである」と。それまでは特殊であったが、日本中でオフィスビルという新しい課題が出てきます。中流住宅の近代化も差し迫っています。都市計画も、そして建築法規も新しい課題です。


実作としては、東京海上ビルヂング(1918年、曽禰中條事務所)、丸の内ビルヂング(1923年、フラー社、三菱地所部)などがあります。建築家・渡辺節の軌跡。オフィスビル設計の要諦として、「公費の圧縮、工期の短縮、設備機器の充実、構造の改善」を打ち出します。渡辺事務所のキャッチフレーズは「安く、良く、早く」でした。それまで建築家が考えなかったことを前面に押し出して、大成功を収めます。「大阪商船神戸支店」(1922年)、日本興行銀行本店(1923年)、大阪ビルヂング(1925年)。渡辺節の実務側からの反撃が進みます。「合理主義による様式の正当化」、「経済的な箱形の外形とコンパクトな平面、単純で無理のない構造」等々が一般化します。



渡辺節事務所の所員だった村野当藤吾は「様式の上にあれ」(1919年)で、「様式という様式の、一切の既定事実の模写や、再現や、復活などと云う、とらはれたる行為は止せ!」「それよりも自分自らの思惟の発達と、観念のモーラリゼーションに自らの自由意志に拠れ!」と述べています。岩元禄は「建築は精神的遊戯である」(1920年頃)として、西陣電話局(1922年)を設計します。岩元の27歳の作、最近、重要文化財に指定されました。



第一次世界大戦後、表現主義が勃興します。メンデルゾーンの「アインシュタイン塔」(1921年)や、シュタイナーの「第一次ゲーテアヌム」(1920年)の影響です。大正9年の東京大学卒業生が「分離派建築会の宣言」を発表します。山田守、石本喜久治、堀口捨巳らによるものです。初期にはゼツェッションやユーゲントシュテルの影響が大きい。実例としては、東京中央電信局(1925年、山田守)、早稲田大学図書館(1926年、今井兼次)、三信ビル(1930年、松井貴太郎)、村野藤吾がアルバイトでやったというあやめ池遊園(1929年)などがあります。



次第に歴史的様式の空間構成から解放されるようになります。ライトのもたらした影響は、一見すると抽象性を感じないが、平面は幾何学的であり、抽象的な形態へと還元されています。時代とともに、西洋風のライフスタイルが一般化してゆき、伝統的な生活様式や在来住宅の不合理さを克服しようと、住宅改良運動が起こります。また第一次世界大戦時の好況が都市問題を惹起します。都市計画法や市街地建築物法、都市美運動が起こります。郊外住宅と洋風住宅が普及するようになります。


最後に、「大正」建築の特質を述べます。明治建築が国家の要請に添って、技術主義的・実用志向で、西洋(歴史様式)直写的であったのに対して、大正の建築は、個人主義的・内面的で、芸術志向、脱様式主義・個性表現重視で、中流層の日常生活重視でした。いずれにせよ極めて大きな変革に時代でもありました。

(以上は、当日の講演と配布されたレジメに基づいていますが、文責はtontonにあります。また画像は、新建築1991年1月臨時増刊「建築20世紀PART1」によります。)


なお、「東京駅赤レンガ駅舎:保存と復原のデザイン」については、後述します。


とんとん・にっき-muko2 次回:

「わが国の近代建築の保存と再生」
プログラム

○「わが国の近代建築:大正から昭和へ」

鈴木博之 東京大学名誉教授、青山学院大学教授、明治村館長

○「明治生命館の保存と再生」

加部佳治 竹中工務店東京本店設計部

中嶋徹  竹中工務店設計本部伝統建築グループ

主催:武庫川女子大学




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