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Channel: とんとん・にっき
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小砂川チトの「家庭用安心抗夫」を読んだ!

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小砂川チトの芥川賞候補作「家庭用安心抗夫」を読みました。

 

はじまりはこうです。

日本橋三越の大理石でできた柱のうえに、けろけろけろっぴのシールが一枚、思い出したように貼ってある。女の動揺はこのようなものだ。日本橋の三越に、秋田の実家の洋服ダンスに貼ってあるはずの、けろっぴのシールが貼ってある――どうしてそれと分かるのかと言われれば、ボールペンの筆跡がわたしのものであるからで、たしかにわたしの貼った、わたしのゆびが撫でていた、わたしの落書きしたあのシール、そのものでしかないのだ。しかし、いったいなぜ?

 

打たれたように顔を跳ね上げると、女はその目を二階、三階、天井へとすばやく走らせ、いまどこかからか彼女を面白おかしく観察しているにちがいない、悪意ある何者かの姿を探した。チャイム音が鳴り渡った。――武蔵野市から、お越しィの、フジタ、あ、サナミ、さま・・・。小波はいま何者かから呼び出しを受けた。彼女を呼び出したのは、このけろっぴのシールを貼ったのと同一人物にちがいないと、直感的に思った。

 

ズダン、ダン、ダン、ダン。上階から今度は、かかとで天井を踏み抜こうとするような足音が聞こえはじめた。この団地の壁が極端に薄いのか、そうでなければ、住民全体の民度が低いのか、自分があまりに神経質すぎるのか?隣人の騒々しさに耐えながら自身は冷蔵庫の開閉にさえ気を払っている。・・ついに洗い物を中断し、地上波を点けることにした。カメラはTUTAYAの側から対岸の渋谷駅の方向を、足元からの仰角で舐めるように撮っていて、信号が青に切り替わると人々の脚が液体のように歩道へあふれだした。ふと目の端になにかが引っかかった。立っていたのはツトムだった。ツトムその人だった。・・・小波は否応なしに、三越のけろけろけろっぴのシールのことを思い出さねばならなかった。あれがもしも、ツトムのしわざだったとすれば?さまざまな感情が遅れて一度にやってきて、小波の肌は粟だった。

 

それから二日後の夜、小波は大手町でツトムと再会することになる。東京の街でツトムと出くわすのはこれがはじめてのことだった。なにしろツトムはいまも秋田にいるはずで、それも<マインランド尾去沢>の暗い鉱山の奥底にいるはずだった。尾去沢ツトムは、小波の父だった。厳密には父と言い切るわけにはいかない、あくまで父とおぼしきひと、だった。・・・秋田の実家近くには、<マインランド尾去沢>という廃鉱山を転用したテーマパークがあって、ツトムはその坑道の中腹に立っている坑夫を模したマネキン人形の一体だった。ツトムのいる坑道を通りかかるたびに母は、「ほらサナ、パパに来たよーってご挨拶しなさい」とどこか笑いをこらえるような顔で言うのだ。

 

小砂川チトの芥川賞候補作「家庭用安心抗夫」は、第65回群像新人文学賞当選作に選ばれた二作のうちの一作です。順序からすれば、芥川賞候補作に選ばれる前に、第65回群像新人文学賞に選ばれています。選考委員は柴崎友香、島田雅彦、古川日出男、町田康、松浦理英子の5名です。

 

柴崎友香は選評で、以下のように言う。

主人公小波の偏執的・妄想的な情景から始まりますが、その自意識を相対化する視点があり、それなりに外側の視線にも適応できることがさらに自意識の困難を生んでいる描き方が秀逸で引き込まれて読みました。・・・故郷に向かうあたりからの突飛で理解不能あるいは滑稽に思える思考回路や行動が、読んでいる側にも真に迫って感じられる。それは小説の持つ力だと思います。「ツトム」という名無しの抗夫とマネキン、盗み出すのに別ンマネキンと入れ替える場面が象徴するように、交換可能な存在でありつつ、本人にとってはこの自分でしかありえない、自分としてしか存在できない、存在していることの根源的な恐怖や不安が、小波から始まってツトムの話を並行して語る構成が優れていました。・・・今回の候補作の中で、語り手、そして読む人の足下が揺るがされるのはこの作品だと思い、当選作に推しました。

 

また、松浦理英子は、それに加えて言う。

ただ、母親のこと、父親のこと、夫のことをもっと具体的に、辛辣に描けば面白くなったのではないか、また、彼らとの間にいったい何があったのか、どういう経緯で現在に至ったのかというあたりももう少し書いた方が、より筆が伸び小説が発展したように思う。

 

第167回芥川賞候補作、四作目を読了、あと一作です。

 

 

 

 

 

 

 


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