早間玲子編訳「構築の人、ジャン・プルーヴェ」を読みました。ジャン・プルーヴェのことを建築家とは言わない。早間玲子は「構築の人」と言いました。これはまさに的確です。
僕は「構築家」について常に発言し、説明してきた。「構築家」の概念には、これからつくるものの全体を、一瞬のうちに見とおす人のひらめきも含まれる。つまり、その人にはまず形としての建築が認識されるのではなく、まず多かれ少なかれ複雑な建造の方法が見えてきて、その結果としてあれこれの形が現れるのだ。(「18良識ある建築」より)
鋳鉄職人、エンジニア、芸術家。
三つの資質を合わせもつ、
プールヴェから生まれる「かたち」。
その背後にある
技術・実践・思想・人生を
アトリエ・ジャン・プールヴェの
プロジェクト・チーフとして協働した
建築家・早間玲子が紹介する。
構築の人、ジャン・プルーヴェ
早間玲子編訳
フランス・ロレーヌ地方の鉄鋼の町ナンシーで、エコール・ド・ナンシーの美術家を父に育ったジャン・プルーヴェ(1901-1984)。その地で鋳鉄職人としてものづくりを始め、先進的な建築家たちと共に制作を行ううち、自らがフランス・モダニズムを先導する建築家となっていた。
戦後、復興期のフランスで、人々の暮らしの再建に必要な住宅を直ちに供給すべく、逸早く住宅の工業生産化にとりくみ、アルミニウム素材を大胆に用いた部材、組立て・解体が容易なプレファブ工法の住宅を考案。その技術を応用した革新的な建設法を駆使して、公共施設、個人住宅、学校建築、学生用の家具などを次々とつくりだしてゆく。
晩年にはポンピドゥー文化センター国際競技設計の審査員長も務めたが、生涯、公認の建築家の資格を得ることはなかった。
プルーヴェの手になる構築物は、その部材のひとつひとつにまで、構造を知り、素材に従うことで生まれる正直な「かたち」が息づいており、頑健でありながらどこか愛らしい佇まいの建築や家具は、時をこえ人々を魅了しつづけている。
20世紀デザイン史で異彩を放つ真の「構築家」の作品と人生を、アトリエ・ジャン・プルーヴェのプロジェクト・チーフとして協働した建築家・早間玲子の編訳でおくる。
〈目次抄〉
I ジャン・プルーヴェ、自身を語る(聞き手 アルメル・ラヴァルー)
1 鋳鉄職人
2 ジェネラル・キュスティヌ通りからマクセヴィルまで
3 マクセヴィル工場の自主管理方式
4 家具
5 ロッズとみんなの家
6 集合住宅地帯──団地
7 大企業
8 工業化──プレファブ方式
9 一戸建て住宅
10 ル・コルビュジエ
11 アトリエのおわり
12 マクセヴィルのあと
13 構想から実施へ/
14 国立工芸院CNAM教授/
15 建築家?
16 ブラン・マントー通り
17 建築家の世界
18 良識ある建築
II部 構築家プルーヴェは語る、工業生産から生まれる建築のすがた
1 建物の構成
2 建物の構造
3 加工製作
4 生活環境
5 建設チームの構成
年譜
ジャン・プルーヴェ:
Jean Prouvé
1901-1984。アール・ヌーヴォーを代表する工芸家エミール・ガレの後継者であるヴィクトル・プルーヴェを父に、パリに生まれる。1916年から鋳鉄工芸家エミール・ロベールとアダルベール・サボの工房で修業。兵役の後、1924年、ナンシーのジェネラル・キュスティヌ通りに最初の工房を開設、建築家マレー=ステヴァンス、ル・コルビュジエのほか、多くの建築家と知り合い、協働するようになる。1940年からレジスタンス運動に積極的に関わり、ナンシー市長として戦後の混乱期を支えた。1947年、ナンシー郊外のマクセヴィルに新工場を開設し、家具、建設分野に革新的な成果を生んだが、工場の株主となった数社の大企業と衝突し、1953年、組織が再編されると工場を去る。1957年、輸送機工業製作所CIMTの建築部部長に就任、カーテンウォールの設計施工に貢献した。同年、国立工芸院CNAM教授に就任、以後13年間、教鞭を執る。1966年、パリにアトリエ・ジャン・プルーヴェを開設。1971年、ポンピドゥー文化センターの国際競技設計において審査委員長を務めた。1981年、ベルギーのエラスムス賞を、1982年、レジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを受章。ナンシーにて死去。享年82。
早間玲子:
フランスの建築家、一級建築士。1933年東京に生まれる。1958年、横浜国立大学工学部建築学科卒業、1959年から前川國男建築設計事務所勤務。1966年、フランス政府招聘日仏工業技術交換留学生として渡仏、在仏日本大使公邸新築工事に関して、Ch. ペリアンと協働する一方、G. カンジリス建築事務所に勤務。1969-75年、アトリエ・ジャン・プルーヴェに勤務。1974年、パリ私立建築大学卒業、同年フランスにおける日本人初の建築家営業権を取得し、1976年、パリに早間玲子建築設計事務所を開設。2004年、フランス共和国の文化勲章とレジオン・ドヌール勲章を受章。2011年、旭日小綬章受章。2013年、フランス共和国建築家会名誉会員。建築作品に、パリ国際大学都市日本館改修(1976、1978)、M. デュプイ邸(1978)、パリ日本人学校(1990)、ベレバ・シャトーホテル(1992)、キヤノン(1984、1994)、ミノルタ(1992)、日立製作所のフランス新工場(1992)、日本の山形トヨペット(2012)などがある。2019年、元日立製作所のフランス新工場(日立・コンピューター・プロダクト[ヨーロッパ]S. A. S.)の総合計画がフランス共和国の文化財「特筆すべき現代建築」に指定された。
「ジャン・プルーヴェ」展
2022年7月16日(土)ー10月16日(日)
東京都現代美術館では2022年7月16日(土)―10月16日(日)に、90年代以降再評価が高まり、国内外で高い人気を誇るジャン・プルーヴェ(1901-1984)の大規模な展覧会を開催します。
1901年、パリに生まれたプルーヴェは、画家の父と音楽家の母のもと、産業と芸術の融合を図ったアール・ヌーヴォーの一派であるナンシー派の影響下で、金属工芸家としてキャリアを出発させました。1923年に初めて自身の工房を開き、その後ル・コルビュジエ、シャルロット・ぺリアンらとの数々の共同作業を行いながら、家具から建築へと仕事を拡大していきます。
マクセヴィルのアトリエ・ジャン・プルーヴェにて(1955年頃)
©Centre Pompidou-MNAM/CCI-Bibliothèque Kandinsky-Dist. RMN-Grand Palais
ジャン・プルーヴェ 《カフェテリアNo.300組立チェア》1950年頃
© Galerie Patrick Seguin
アルミニウムやスチールといった新たな建築素材を探求するとともに、解体・持ち運び可能な椅子やプレファブ建築などの新技術を開発したプルーヴェの仕事は、デザイン、工芸、建築などひとつの分野に収まることなく、ジャン・ヌーヴェルやレンゾ・ピアノをはじめ、20世紀の建築・工業デザインの分野に大きな影響を与えました。
本展覧会は、現存するオリジナル家具およそ100点、ドローイング、資料の展示に加え、移送可能な建築物の展示を通じて、プルーヴェの仕事を網羅的に紹介します。
では2022年7月16日(土)―10月16日(日)に、90年代以降再評価が高まり、国内外で高い人気を誇るジャン・プルーヴェ(1901-1984)の大規模な展覧会を開催します。
1901年、パリに生まれたプルーヴェは、画家の父と音楽家の母のもと、産業と芸術の融合を図ったアール・ヌーヴォーの一派であるナンシー派の影響下で、金属工芸家としてキャリアを出発させました。1923年に初めて自身の工房を開き、その後ル・コルビュジエ、シャルロット・ぺリアンらとの数々の共同作業を行いながら、家具から建築へと仕事を拡大していきます。
「東京都現代美術館」ホームページ
東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO (mot-art-museum.jp)