人間の不条理を、哀しさ、おかしさをまじえて寓意的に描き、現実とも空想ともつかない世界へと読者をいざなう。前衛作家として海外でも高く評価され、生前はノーベル賞有力候補といわれた。
「砂の女」
昆虫採集のため真夏の砂丘を訪れた男が、砂穴にすむ女に囚われる。そこは蟻地獄に似た脱出不可能な場所で、降り積もる砂から身をまもるための砂掻きが生活のすべてだった――。小説「砂の女」刊行(1962)の2年後、安倍公房自身が脚本を書き、勅使河原宏が監督して映画化された。
ヤマザキマリさんが初めて読んだ安倍公房作品が「砂の女」。イタリア留学中に自らが実感した人間社会の不条理を、安倍公房が描いた作品を通じて客観視できたという。
安倍公房の似顔絵。ヤマザキマリ画
プロデューサーAのおもわく
安部公房「砂の女」は、戦後文学の最高傑作の一つとも称される作品です。世界20数か国で翻訳、戯曲化や映画化も果たし、今も国内外で数多くの作家や研究者、クリエイターたちが言及し続けるなど、現代の私たちに「人間を縛る生の条件とは何か」「自由とは何か」を問い続けています。番組では、戦後日本文学の代表者ともいえる安部公房(1924-1993)の人となりにも触れながら、代表作「砂の女」に安部がこめたものを紐解いていきます。
舞台は、とある海岸に近い砂丘の穴の中に埋もれかかった一軒家。休暇を利用して新種のハンミョウを採取すべく昆虫採集に出かけた学校教師・仁木順平は、女が一人で住むこの家に一夜の宿を借りることに。ところが翌朝外界へ出るための縄梯子が何者かによって取り外されていました。彼は、村人たちによって砂を掻き出す作業員として幽閉されたのです。その後、さまざまな方法で脱出や抵抗を試みるも、ことごとく挫折。やがて彼はその環境に順応し始めるのでした。果たして砂の穴に閉じ込められた仁木の運命は?
漫画家・文筆家のヤマザキマリさんによれば、この小説には、過酷な現実から逃れようともがく主人公の模索を通して、絶えず自由を求めながらも不自由さに陥ってしまう私たち人間の問題が描かれているといいます。それだけではありません。安部が戦後社会の中で苦渋をもって見つめざるを得なかった「自由という言葉のまやかし」が「砂の女」という作品に照らし出されるようにみえてきます。この作品は、私たちにとって「本当の自由とは何か」を深く見つめるための大きなヒントを与えてくれるのです。パンデミックによって、移動や交流の自由が著しく制限されている私たち現代人にも示唆することが多いといいます。
番組では漫画家で文筆家のヤマザキマリさんを講師に迎えて「砂の女」を現代の視点から読み解き「私たち人間が逃れようのない生の条件」や「自由の問題」「不条理ともいえる社会の中で人はどう生きればよいか」といった普遍的な問題について考えます。
第1回 「定着」と「流動」のはざまで
「砂の女」の舞台は海岸に近い砂丘の中に埋もれかかった一軒家。休暇を利用して新種のハンミョウを採取すべく昆虫採集に出かけた学校教師・仁木順平は、女が一人で住むこの家に一夜の宿を借りることに。そこで繰り返されるのはひたすら砂を掻き出す単純労働。常に流動し定着を拒む「自由の象徴」と仁木が思い描いていた「砂」は、この場所では人間の自由を阻む壁として立ちはだかっていた。第1回では、安部公房の人となり、「砂の女」の執筆背景などにも言及しながら、安部公房が描こうとした、人間がもたざるを得ない限りない自由への憧れと、それを阻害するものとの葛藤について考える。
第2回 揺らぐアイデンティティー
女の家で一夜を過ごした仁木は、翌朝、外界へ出るための縄梯子が取り外されているのに気づき驚愕する。彼は、村人たちによって砂を掻き出す作業員として幽閉されたのだ。彼は女に「外へ出て自由になる気はないのか」と問うが、女は超然とその気がないことを示すのみで、まるで自ら自由を手放しているかのよう。女の態度に苛立ちつつ、仁木は脱出や抵抗を試みるが、ことごとく挫折。あげくに自分が忌避していたはずの戸籍や所属証明を楯に女や村人たちを恫喝するのだった。第2回は、「砂の女」という作品に象徴的に描かれた「アイデンティティ―の揺らぎ」を読み解き、自由へのあくなき拘泥が逆に人間を束縛するという逆説について考える。第3回 人が「順応」を受け入れるとき
仁木の三度目の脱走は成功したかに見えたが村人たちに捕縛される。手ひどいダメージを受けた彼は、徐々にその環境に順応し始める。やがて、日々繰り返される砂との闘いや日課となった手仕事に対してささやかな充実感を覚えるまでに。仁木は、最初は拒絶していた砂丘の村を、生きていくために受け容れようとする。そこにはどんな心境の変化があったのか。第3回は、過酷な環境に順応していく仁木の姿を通して、「何かに帰属しなければ生きていけない人間の性」について考える。
第4回 「自由」のまやかしを見破れ!
もはや外界に出ることを諦めたかにみえる仁木は、ある作業の虜になる。鴉をつかまえるための罠づくりだ。だが、その仕掛けは、全く予想もしない機能をもつに至る。常に水が不足する穴の底にあって蒸留水を溜める装置として使えることがわかったのだ。そんな折、女が子宮外妊娠していることが発覚、緊急入院のため女は外へ運び出されることに。どさくさの中で縄梯子はかけられたまま放置された。逃亡する最大のチャンスだったが、仁木は外へ出ようとはしなかった。果たして仁木の選択の意味とは何だったのか? そして完全に現実社会から失踪した仁木は、果たして「自由」を得たといえるのか? 第四回は、仁木の創造行為や最後の選択の意味を問うことを通して、私たちにとっての「自由」の意味をあらためて考察する。
ヤマザキマリ:
漫画家・エッセイスト。1967年生まれ。17歳のときに渡伊、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で油絵と美術史を専攻。エジプト、シリア、ポルトガル、米国を経て各地で活動したのち、現在はイタリアと日本を拠点に置く。1997年より漫画家として活動開始、2010年、『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。ほかの主な漫画作品に『スティーブ・ジョブズ』(講談社)、『プリニウス』(とり・みきとの共作、新潮社)など。エッセイに『ヴィオラ母さん――私を育てた破天荒な母・リョウコ』(文藝春秋)のほか、『国境のない生き方――私をつくった本と旅』(小学館新書)、『たちどまって考える』(中公新書ラクレ)など多数。2022年5月、安部公房の作品論『壁とともに生きる――わたしと「安部公房」』(NHK出版新書)を刊行。2015年度芸術選奨新人賞受賞、2019年、日本の漫画家として初めてイタリア共和国星勲章・コメンダトーレを受章。東京造形大学客員教授。
「砂の女」
新潮文庫
昭和56年2月25日発行
平成15年3月25日53刷改版
平成29年6月5日76刷
発行所:新潮社
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