乗代雄介の、芥川賞候補作「皆のあらばしり」を読みました。
前々回の芥川賞発表時に、以下のように書きました。
後だしじゃんけん、ではないですが、僕は宇佐見りんの「推し、燃ゆ」を消極的ながら受賞作の本命とし、乗代雄介の「旅する練習」を対抗馬として予測しました。まあまあ当たっていたので、一安心しました。
そして芥川賞選評でただ一人吉田修一は、乗代雄介の「旅する練習」を取り上げました。
「旅する練習」。非常に面白かった。おそらくこれからコロナ禍を舞台にした様々な小説が出てくると思うが、コロナに対して極端に過敏でもなく、かといって露悪的に鈍感でもない、いわゆる平均的な人々がこの時期をどのように生きたかが、この小説の中にはあるように思う。この穏やかな旅行記では、コロナ禍という非日常だからこそ見つかる普遍的なものがキラキラと輝いている。
また、朝日新聞の年末恒例、書評委員19人の「今年の3点」では、書評家の大矢博子が「コロナ禍を背景にした小説が多く出された中で印象に残った一冊。ラストの衝撃の後、もう一度最初から読み直す感慨は格別」として、乗代雄介の「旅する練習」を3点のうちの1点として挙げていました。
ここまでは過去の話、さて、ここから乗代雄介の「皆のあらばしり」に。どのように捉えたらいいのか、評価が難しい。平易な文章で非常に読み易いのですが、芥川賞受賞作としては他を出し抜くインパクトに欠けるし、多くの選考委員の推薦を得るのは、前々回の例を見るまでもなく、残念ながら難しいように思います。(まだ他の候補作を読んでいませんけど…)
栃木駅から離れた皆川城址で、高校生の僕はその男と出会った。男に「史跡研究が趣味か」と聞かれ、ぼくは「歴史研究部で、地誌編輯材料取調書の翻刻をしている」と答え、「翻刻っていうのは・・・」というと、「書物を原本の内容のまま活字で出版することや」と男は言い、「高校生の口から翻刻なんて言葉が出るとは思わんかったで」と大阪弁で言った。
次の日、琴平神社へ二人で登っていくと、拝殿の前で歴史研究部の後輩、竹沢に会う。「私がこの柏倉村の担当です。琴平神社の資料も在りますよ」と竹沢は言った。「実は、浮田君とはこの後、担当の皆川城址を案内してもらう約束をしとんねんや」と男は言う。「そんなら、君ら一緒に琴平神社の研究をやったらええやんか」。
男は竹沢屋蔵書目録をめくりながら突然手が止まった。男が指さしたところには小津久足という名前があった。「小津久足は、伊勢は松坂の豪商、千鰯問屋湯浅屋の六代目当主や。稼業の傍ら、歌に国学、紀行文と文事を重ね、歌は約七万首、蔵書は西荘文庫として残っとる」。「その小津久足の、母違いの弟の孫が小津安二郎なんや」。「この人がどうしたんだ」と僕が言うと男は「その小津久足の著作として、『陸奥日記』と『皆のあらばしり』が一点ずつあると書いてあるわな」。「どうもおかしいねんな。『皆のあらばしり』なんちゅうもんは記録にないねん」。
「あらばしりっていうのは」とぼくが言うと、「日本酒をしぼる時に、一番最初に出て来る酒のことをそう言うねん」。「じゃあ、あんたはこの『皆のあらばしり』について調べるために、ぼくと竹沢を組ませようとしたのか」。竹沢は「竹沢屋蔵書目録」のある旧家の儀兵衛の曾孫にあたる。儀兵衛は商才に長けて、学問もでき、父親の儀助が亡くなって25歳で家業を継いで、明治に入って竹沢屋が一番繁盛したのも儀兵衛の代だったという。竹沢屋は、明治の30年頃に廃業して農家に戻ったらしい。
「そろそろ、あんたの本当の目的を教えてほしい。そうじゃなきゃ、これ以上は協力できない。ぼく次第なんだから」。「そんなん言い出すからにはわかっとるんやろ。わしは個人的に『皆のあらばしり』を手にいれられるように事を進めとんねん。ほんまに存在すればやけどな」。「いや、わしはな、『皆のあらばしり』を誰にもわからんように盗み出したいねん」。「こういう変わった一点もんには色を付ける奴がおんねん」。
「竹沢が、ひいじいちゃんの部屋にあやしい箪笥があると言ってる。誰も開けたことのない箪笥だ」。「次の月曜の午前中、家にひいじいちゃんと僕たち以外いなくなる。その時に、あんたに電話をかけて欲しい」。
「大変やったで。あのひいじいさん、ちょっとこっちが詳しい振りしたら一時間も予科練の思い出話をしよったがな」。「ぼくはもう、あんなには会わないよ」。「なんでやねんな」。「手に入った。間違いなく「皆のあらばしり」だ。だから、もう終わりだよ」。「持っとんのかいな」。「そこに埋めた」。ぼくはツバキの根元を指さした。「酒屋が皆のあらばしり言の葉のほか跡はのこらじ」。「竹沢屋儀兵衛が作った小津久足の歌だ。紀行文の題にもなった」。
「嘘だ。これまであんたに話してたこと」。「まず、ぼくと竹沢は付き合ってなんかいない。ただの共同研究者だ」。「竹沢家の人間は、『皆のあらばしり』なんてものが家にあることを知らない」。「ほな、ひいじいさんの部屋の箪笥言うたんも嘘かいな。あれはほんまか」。「物置にあった」。
「あんたは」ぼくは男の目を見て言った。「ぼくが今まで出会った中で一番すごい人間だ。誰も比べものに」ならないくらい、断トツで。あんたと知り合って半年、本当に楽しかった。それはあんたと一緒にいない時でもそうだ。他のこと全部がどうでもよくなるくらい、この世界がおもしろく見えてきたんだ。だから、あんたにどうしても認められたいと思った」。
騙すということは、騙されていることに気づいていない人間の相手をするということだ。気付けばショックを受けるに違いないのだから、いつから騙していたのか、どのように騙していたのか、相手が気付かないようにしてやりたいのが人情で、この厭味ったらしい優しさこそ詐欺師の腕というべきものである。
さて、皆川城址の例のベンチに残された不肖私は、震える胸をこらえながらもその職業意識を駈って、ツバキの下に走り寄った。これで半年も取り組んだ一仕事が終わるなら、爪の間に土が入ろうと構わない。いつものような慎重さはなかった。しかし、わざとらしく撒かれた落ち葉を除き、踏み固められた春の土に指を差した時、その何とも言えぬ温度が我に返らせてくれた。落ち着いて顔を上げ、周囲を確認した。
しゃがんだ足の靴先で缶を挟みながら、爪を立てて力をこめた。指先に痛みが走るのをこらえて何秒か震えた後、一挙に開いた。と、空気の裂ける甲高い音と、黒く長いものが勢いよく躍り出て、顔を掠めた。私は驚き、喉を短く鳴らしながら、のけ反って後ろに倒れた。頭を打たぬようにしばらく前にこらえていた首は、自分を襲ったのが例の空気ヘビだと気付いた時、観念したように脱力して地に置かれた。
缶の中に納まっているのは紛れもなく目的のもので、断トツに優秀な同僚候補の連絡先まで添えられていたというのに、私はそれには見向きもせず、しばらく愉快に笑っていた。
今朝の新聞の、新潮社の広告に、以下のようにあった。
第166回芥川賞候補作
乗代雄介「皆のあらばしり」。
ぼくと怪しい中年男は、「謎の本」を探し求める。
本をめぐる知的愉楽に満ちた三島賞作家受賞第一作。
幻の書の新発見か、それとも偽書か――。
高校の歴史研究部に所属するぼくは、あの城址に現れた、
うさんくさい大阪弁の男の博識に惹かれていく。