浅井まかての「白光」(文芸春秋:2021年7月30日第1刷発行)を読みました。
以前から「山下りん」について興味を抱いていましたが、その生涯を描いた小説が出たので、読んでみました。久しぶりに小説らしい小説を読んだという感じです。
浅井まかてについては、まったく知らない小説家でしたが、その筆力は破綻がなく、ぐいぐい読ませる作家でした。全編500ページ弱、主要参考文献も60編弱、主要参考論文が15編、これだけでも驚きます。
実は、浅井まかての「眩(くらら)」、葛飾北斎の娘・葛飾応為(おうい)を描いた作品が興味深いのですが、今回は自粛しています。
著者の到達点たる圧巻の傑作!
絵を学びたい一心で
明治の世にロシアへ
芸術と信仰の狭間でもがき
辿り着いた境地――
日本初のイコン画家、山下りん
激動の生涯を力強く描いた渾身の大作
【あらすじ】
「絵師になります」
明治5年、そう宣言して故郷の笠間(茨城県)を飛び出した山下りん。
画業への一途さゆえに、たびたび周囲の人々と衝突するりんだったが、
やがて己に西洋画の素質があることを知る。
工部美術学校に入学を果たし、西洋画をさらに究めんとするりんは
導かれるように神田駿河台のロシヤ正教の教会を訪れ、
宣教師ニコライと出会う――
日本人初のイコン画家・山下りんの波乱万丈な生涯――『白光』(朝井 まかて)-インタビュー・対談(2021.09.16)
浅井まかて:
1959年大阪府生れ。2008年小説現代長編新人賞奨励賞を受賞して作家デビュー。2013年に発表した『恋歌』で本屋が選ぶ時代小説大賞を、2014年に直木賞を受賞。ほか、同年『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞、2015年『すかたん』で大阪ほんま本大賞、2016年『眩』で中山義秀文学賞、17年『福袋』で舟橋聖一文学賞、2018年『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞、19年に大阪文化賞(個人に贈呈)をそれぞれ受賞。その他の著書に『ぬけまいる』『残り者』『落陽』『最悪の将軍』『銀の猫』『草々不一』『落花狼藉』『グッドバイ』などがある。
朝日新聞:2021年9月18日
「白光」 [著]朝井まかて 書評:大矢博子
『眩(くらら)』で葛飾北斎の娘・葛飾応為(おうい)を描いた朝井まかてが、再び女性絵師の生涯に向き合った。明治期に活躍した日本初の聖像画師・山下りんである。開国して間もない明治6年、絵師になりたくて笠間(現茨城県笠間市)から上京したりんは、様々な師匠の元を経て明治10年に工部美術学校に入学、西洋画を学んだ。さらに神田駿河台のロシヤ正教会で宣教師ニコライと会い、イコン(聖像画)を学ぶためサンクトペテルブルクの修道院へ留学するチャンスを得る。
まず、りんが魅力的だ。勝ち気で正直で、こうと決めたら一直線。貧乏にも挫(くじ)けず、学ぶことが楽しくて仕方ない。結婚なんて興味ない、私は絵が描きたいんだという生き生きした女性の姿が浮かんでくる。ところが修道院の工房で模写を命じられたのは、平板で稚拙な古いイコンだった。これでは近代西洋画の勉強にならない――。イコンとは正教会で用いられる聖人や聖書の場面を描いた絵のこと。絵師の署名は入れず、自己表現としての芸術とは対極にある。自分の意見をはっきり主張し、芸術のためなら他者とぶつかることも厭(いと)わないりんが、なぜ無名性を尊ぶ聖像画師になったのか。
その謎を解く鍵が、稚拙な絵の模写ばかりやらされた理由だ。そこにりんが気づく過程には思わず膝(ひざ)を打った。自己実現や自分らしさといった枷(かせ)から離れることで、人は「自分」という枠からも自由になれるのだと伝わってきた。晩年のりんの清々(すがすが)しさたるや!本書のもうひとつの軸は当時の社会の描写だ。明治期の美術教育や印刷技術が詳細かつ具体的に活写される。その一方で、対露関係が次第に軋(きし)み始める。急速に西洋文化が流入して来た時代のエネルギッシュな息吹と、急速だったが故に強まる軋轢(あつれき)が、そこにあるかのように色と温度を持って迫って来る。さすがの筆力だ。時代とりん、両方の生命力に溢(あふ)れた一冊である。
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茨城県近代美術館で「聖なるものへ―ひそやかな祝祭―」を観た!
僕が山下りんを最初に知ったのは、NHKの「日曜美術館」でした。
その後、何度か山下りんについて放送があり、僕は全部見ています。
過去の放送番組を見ると次のように特集が組まれていました。
①日曜美術館 イコンにこめられた情熱 明治の女性画家 山下りん
1986年12月14日
②新日曜美術館 イコンと生きる 山下りん・祈りの美
2004年6月13日
③日曜美術館 祈りのまなざし イコン画家・山下りんと東北
2015年3月8日
NHK日曜美術館「祈りのまなざし イコン画家・山下りんと東北」
東北地方における山下りんのイコン
フィールドワーク調査による正教会の状況と山下りん作イコンの所蔵概要
東北地方における山下りんのイコン〔抄)久保田菜穂 (yamagata-u.ac.jp)
「明治期における女性イコン画家~山下りん」
日本人初のイコン画家の生涯
朝井まかてさんの最新刊『白光(びゃっこう)』は、日本人初のイコン画家・山下りんの波乱万丈な生涯を描いた長編小説だ。
「これまで“信仰”を書いたことがなかったので、難しいとは承知しながら挑戦してみました。ロシア正教についてもほとんど知識がなく、同じキリスト教でもカトリックやプロテスタントとは使う言葉も違います。読者が難解に感じないように意を払い、りんの人生を共に生きていただければと願いながら書きました。無我夢中でした」
明治六年、絵師を目指して故郷の笠間(茨城県)を飛び出した少女は、やがて日本初の美術教育機関である工部美術学校へ入学を果たす。そこで西洋画の才を究めようと奮闘するが、満足のいく授業を受けられなくなる。そんななか、友人を介して出会ったのがロシア正教、そして今も“ニコライ堂”で知られる宣教師ニコライだ。りんにとっては、西洋世界そのものだった。
「洗礼を受けた契機は、西洋画の女画工としての道が開けるかもしれない、と考えたことが大きいでしょう。では、真の信仰心が芽生えたのはいつか? 真のイコン画家になったのはいつなのか? 小説だからこそ、芸術と信仰の狭間で苦悩する姿、信仰の発露、やがて祈りの画家へと向かう過程にも迫れると思いました」
入信の直後、思いがけない転機が訪れる。ニコライのすすめで、ロシアの女子修道院に留学することになったのだ。本場で西洋画の勉強ができる。りんは期待に胸を膨らませるが、サンクトペテルブルクで待ち受けていたのは苦難の道だった。修道院では、伝統的な聖像画を正確に模写することが求められ、逸脱は許されない。彼女の希望とは真逆の教育を受けることに……。
「りんは近代的な自我を持った女性です。芸術への希求が人一倍強いのに修道院では前時代的な描き方を求められるわけですから、修道女たちに真っ向から反発しました。模写する聖像画を下手だ、陰気だと嫌悪します。彼女は相当な画力を持っているだけに、下手な絵が嫌いなんです(笑)。でもロシアへ取材に行った際に美術館でたくさんイコンを観てきましたが、古い聖像画のプリミティブな魅力は忘れられません。まさに信仰芸術の原点でした」
芸術と信仰の間で葛藤する彼女は、次第に心身の調子を崩し、留学半ばで帰国する。日本ではやがて日露戦争の足音が近づき、ロシア正教、そしてニコライの立場も苦しくなっていく。目まぐるしく時代が変化するなか、“聖像画を描くこと”に向き合い続けたりんが至った境地とは――。朝井さん渾身の大作を堪能してほしい。
あさいまかて 一九五九年、大阪府生まれ。二〇一四年『恋歌』で直木賞、一六年『眩』で中山義秀文学賞、二〇年『グッドバイ』で親鸞賞を受賞。『銀の猫』ほか著作多数。