パナソニック汐留美術館で「サーリネンとフィンランドの美しい建築展」を観てきました。
サーリネンとはエリエル・サーリネンのこと。
すぐに思い浮かぶのは、エーロ・サーリネンの父親。
ヘルシンキ中央駅の設計者。
シカゴ・トリビューン設計競技の2等。
これを機に、アメリカに移住。
設計した作品についてはほとんど知らない。
ましてや、アメリカに移住後についてはなにもしらない。
サーリネンとフィンランドの美しい建築展
2021年7月3日(土) - 9月20日(月・祝)
エリエル・サーリネン(1873-1950)は、フィンランドのナショナル・ロマンティシズムを代表する建築家です。1900年パリ万博フィンランド館をゲセリウスとリンドグレンと設計し脚光を浴びたサーリネンは、共同設計事務所と生活の場としてつくられたヴィトレスクで、自然のなかの暮らしの理想を実現します。本展は渡米前のフィンランド時代の活動にスポットをあて、公共建築や都市計画から、住宅や生活のデザインまでを紹介します。
展覧会概要:
美しい森と湖で知られる北欧の国フィンランド。日本でもファンの多いフィンランドのモダニズムの原点を築いたのがエリエル・サーリネン(1873-1950)です。サーリネンはヘルシンキ工科大学在学中に出会ったゲセリウスとリンドグレンと共同で設計事務所を設立し、1900年パリ万国博覧会フィンランド館の建築が好評を博して、みごとなデビューを果たします。初期の作風は、ナショナル・ロマンティシズムと称される、アール・ヌーヴォーの影響をうかがわせながらも民族の独自の文化的ルーツを表現した建築で、当時、独立を求めていたフィンランドの人々を鼓舞させるものでした。
3人はやがて、静かな自然のなかで暮らしながら協働し、芸術家たちと交流できる理想の生活の場として、ヴィトレスクをつくります。住宅、商業建築、公共建築、駅や都市のデザインと、次第に幅を広げていくサーリネンの設計活動は、20世紀前半の近代化と手を携えていました。その作風は、多様な文化を受け容れつつ民族のルーツを希求した初期のスタイルから、独自の形態を通じて新しいフィンランドらしさを提示しようというモダニズムへと展開します。
本展は、1923年の渡米までのフィンランド時代にスポットをあて、図面や写真、家具や生活のデザインといった作品資料の展示を通して紹介します。つねに革新を求めつつ、自然や風土に根ざし、光と陰影をとりこんで豊かな表情を見せるサーリネンのデザインは、生活のあり方を一歩立ち止まって考え直す時を迎えている今の私たちの心に深く語りかけるでしょう。
以下、エリエル・サーリネンの作品の一部
エリエル・サーリネン:
1873年に、フィンランドのランタサルミで牧師の父ユーホーと、母セルマ・ブロムス・サーリネンの間の7人兄弟の2番目として生まれたエリエル・サーリネン。フィンランドの大自然のなかで育ち、絵を描くことが好きだったため美術の道に進むか、建築を学ぶか迷ったが、1893年にヘルシンキ工科大学建築学科に入学。同時に帝国アレクサンドル大学(現ヘルシンキ大学)の絵画の授業にも通い絵を続けた。1896年の在学中に、ヘルマン・ゲゼリュースとアーマス・リンドグレンの3人で建築設計事務所を設立し、1900年には、世界的な名声を得ることになる「パリ万博フィンランド館」が完成。1903年、落ち着いて仕事ができる場を求め設計した、事務所兼共同住宅「ヴィトレスク」がヘルシンキ近郊キルッコヌンミのヴィトレスク湖東岸に完成。私生活では、2人目の妻であるロヤとの間にエヴァ=リサと、エーロの2人の子供をもうけた。
1914年に完成したヘルシンキ中央駅駅舎と並行して、エリエルはいくつもの都市計画を手がけたが、1922年に行われた「シカゴ・トリビューン本社ビル」の国際コンペティションで2等を獲得したことをきっかけに、1923年に渡米。その後、教育機関などの建築に携わり、1932年には「クランブルック・アカデミー・オブ・アート」の校長に就任するなど、美術やデザインの教育に力を入れた。1945年にアメリカの市民権を獲得し、1947年にはアメリカ建築家協会(AIA)より優れた建築家に贈られる賞、ゴールド・メダルを受賞した。
「サーリネンとフィンランドの美しい建築」
展覧会図録
発行年:2021年
発行 :株式会社キュレーターズ
参考:シカゴ・トリビューン国際設計競技 1922年
(「新建築1991年1月臨時増刊 建築20世紀ART1」より)
左:実現した1等案
中:1等 J・M・ハウエルズとR・M・フッド案
右:エリエル・サーリネン案
左:W・グロピウス案 右:A・ロース案
左:マックス・タウト案 右:ブルーノ・タウト案
以下、一点のみ撮影可のルオーの作品