多和田葉子の「穴あきエフの初恋祭り」(文春文庫:2021年7月10日第1刷)を読みました。本屋で平積みになっていたのでさっそく購入、最新の文庫本です。久しぶりの多和田葉子の本、比較的文章は平易で読み易い7つの短篇集です。
ドイツと日本の間で国と言語の境界を行き来しながら物語を紡ぎ、『献灯使』で全米図書賞(翻訳部門賞)を受賞するなど、ますます国際的な注目が集まる言語派作家・多和田葉子さん。「移動を続けること」が創作の原動力と語る著者が、加速する時代の速度に飲み込まれるように、抗うように生まれた想像力が鮮烈なイメージを残す7つの短篇集。
本の帯には、以下のようにあります。
近づいたかと思えば遠ざかり、
遠ざかると近づきたくなる、
意識した瞬間にするりと逃げてしまうもの――。
「私」の輪郭が揺らぐ時代のコミュニケーション、
その空隙を撃つ七つの物語。
巻末には、早稲田大学文学学術院准j教授の岩川ありさの、詳細なそして完璧な「解説」が載っています。これ以上書き加えることはありません。その一部を…。
たとえば、「ミス転換の不思議な赤」を読むために、国際シンポジウムの多和田の言葉を取り上げています。「文字を聞くというのは、文字を見えなくしてしまうような聞き方をするのではなくて、逆に文字の身体を耳でとらえる聞き方のことです」。
そして、「同音異義語」について触れて、「ワープロが普及したおかげで、いろいろ変換ミスが起こり、これまで気がつかなかったことに、いろいろ気がつくようになりました。コンピューターのよいところは、なかなか人間には真似のできないような面白いミスをすることで、そのミスによって、言葉の隠された可能性が見えてくることです。これが最新技術のもたらす変化の中で一番意義のある面かもしれません。もちろん、新しい可能性に気がつくのは機械ではなく人間のほうなので、ヒテクの世界でこそ、わたしたちはどんなポエティックなチャンスも見逃さにように、たえず耳を傾け、目を大きく開けていなければいけません」と指摘しています。
以下、意味があるかどうかは別にして、7つの短篇の書き出し部分を・・・
十年ぶりに再訪したはずの日本(「胡蝶、カリフォルニアに舞う」)
I は優子のマンションで目を覚ました。借りて寝た浴衣のお腹のあたりがぐっしょり濡れていた。夜中に喉な渇いて起き出し、スイッチの場所が分からないので電気もつけずに手探りで台所に行きつき、月明に照らし出されていたコップに水を汲んで飲んだつもりが、そのコップのようなものは底に穴が空いていたのだ。
重ねたはずの手紙のやりとり(「文通」)
舟子に娘がいるという話を陽太は初めの頃は全く気にかけていなかった。子持ちししゃもも、子連れ狼、こぶとりじいさん。場違いな言葉が次々脳裏に浮かんでくるが、不安は全くない。自分が繁殖の系譜からはずれていることで、受け渡したはずの遺伝子が上手く開花しないのではないかとハラハラする心配もない。十歳人るという、まだ逢ったことのない少女に会う日が楽しみだった。
何千何万年も共存してきたはずの寄生虫(「鼻の虫」)
わたしが初めてあの虫の存在を意識するようになったのは、学生時代にドレスデンに旅行したおり、衛生博物館に足を運んだのがきっかけだった。その時たまたま、かなり風変わりな展示をやっていて、それは一口で言えば、「体の中の異物」についての展示だったが、わたしが改めて驚いたのは、「異物」(Fremdkorper)という単語の中にも「体」(Korper)という単語が含まれていることだった。
*oの頭に点々は、表示できません。
交換不可能な私とあなた(「ミス転換の不思議な赤」)
あああああああああああああっと最大限の音量で叫ぶ緋雁(ひかり)の顔球がわたしの視界に左から突っ込んできた。体育の授業の始まる前のわずかな時間を利用して、わたしはすぐ左隣の椅子にすわった玲奈とあるデキゴトについて夢中で話していて、その向こうの椅子に緋雁がすわっていることにさえその瞬間まで気づかなかった。
キエフの町のお祭り(「穴あきエフの初恋祭り」)
ひらり翻るようにドアが開いて、魚籠透(ビクトル)が茶店に飛び込んできた。いつもならそのひょうたん顔を見ただけで気が滅入るところ、この日の勢いは若鹿だったので、こちらも思わずふわあっと立ちあがり、「どうかしたの?」声にはすでに「連れて行ってよ」という調子が混ざっていた。
電話番号にひもづいたアイ電ティティ(「てんてんはんそく」)
照子とはすぐに繋がる。向こうはいつも客を待って待機しているのか、こちらが指先でプシュプシュと誘うように押せば、即座に凛々(りんりん)と呼び鈴が鳴って、それだけで、もう次の瞬間には湿った声が耳元で聞こえている。行方不明になってしまったあの人の声、といつも思ってしまうが、違うことは分かっている。いつまでもいなくなった人を捜していても仕方がない。
早いはずが時間のかかる配達(「おと・どけ・もの」)
「あとりえぽとれ」というところから月曜日に電話があり、「それでは水曜日の午後二時頃におうかがいします」と言われ、火曜日が過ぎると水曜日が来て、二時になると一人の女性がわたしの目に前に立っていて、「わたしがカメラマンです」。サラサラ前髪の二十代前半と思われる女性の口紅は黒、「口紅」と言うくらいだから黒ではなくやはり紅色ではないか、紅色だけれどもとても濃い紅色なので黒と変わりないのではないか、と納得しようとしているわたしの方を見ようともしないでカメラマンは…。
朝日新聞:2020年9月3日
多和田葉子:
小説家、詩人。1960年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルク大学大学院修士課程修了。文学博士(チューリッヒ大学)。82年よりドイツに移住し、日本語とドイツ語で作品を手がける。91年『かかとを失くして』で群像新人文学賞、93年『犬婿入り』で芥川賞受賞。96年、ドイツ語での文学活動に対しシャミッソー文学賞を授与される。2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花文学賞を受賞。同年、ドイツの永住権を取得。11年『雪の練習生』で野間文芸賞、13年『雲をつかむ話』で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。16年、ドイツのクライスト賞を日本人で初めて受賞。そのほか18年『献灯使』で全米図書賞翻訳文学部門、20年朝日賞など受賞多数。
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