芥川賞候補作、高瀬隼子の「水たまりで息をする」を読みました。
物語は、以下のように始まります。
夫が風呂に入っていない。衣津実(いつみ)はバスタオルを見て、そのことに気付いた。昨日も一昨日もその前の日も、これがかかってなかったっけ? 芝生みたいな色のタオル。・・・「風呂には、入らないことにした」。「入らないことにした?」。言葉をなぞって聞き返す。頷く夫の顔を見る。今年35になる一つ下の夫は、夜はいつも体調が悪そうに見える。
衣津実は、夫が濡れて帰ってきた夜のことを思い出していた。ひと月ほど前のことだ。「えっ、どうしたのそれ」。「ちょっとした悪ふざけをされて」。新年会をしようと会社の数人で飲みに行ったという。そこで、まだ入社して数年目の後輩に、水をかけられたらしい。
なんでお風呂に入らないの?という問いかけを、沈み込んでいるように見える夫を見ると、口に出すのがためらわれた。・・・朝、夫はタオルを濡らして顔を拭き始めた。洗面台の足元に、2リットル入りのペットボトルのミネラルウォーターが置いてある。水道水ではなくて、ミネラルウォーターで顔を拭いているのだった。
雨が降る度に傘を持たずに出かけて行く夫に、衣津実が「近所の人に見られないようにしてよ」と言うと、「近所の人ってたとえば誰?」と怪訝そうな顔をされた。・・・夫がびしょびしょに濡れて帰ってくる度に、きっと今日も近所の人に見られたと彼女は内心そっと思う。夫は彼女がそんなことを考えているとは思わない。
義母から電話がかかってきた。「研志の職場から電話があってね。様子がおかしいって。ここのところずっと体調が悪そうに見えるというか…」。「ねえ、衣津実さん。研志はほんとうに元気にしてる?なにか・・・体だけじゃなくて。心の病気とか」。義母はそれを聞きたかったのだ、と一段慎重になった声で気付く。
「もしもし、衣津実さん、研志の会社からまた電話があって、体臭で周りを不快にさせるのも、一種のハラスメントなんですって。病気や元々の体臭なら仕方がないけど、研志についてはそうではないでしょうって。それで、改善されないなら今と同じ仕事…つまり営業の仕事、それはさせられないって。そういう話をね、研志にはしてあるんですって」。「夫婦の問題なのよ。なんなの、病院にも連れて行かないで、研志のことが大切じゃないの?研志もおかしいけど、あんたもおかしいわよ」。
何回か、夫はひとりで衣津実の地元へ行った。駅前のホテルに泊まって、彼女の母の車で川の上流に連れて行ってもらい、ホテルのレンタサイクルで山を下って帰ってきた。往復三回分の電車代と宿泊費を合わせると、今月の家賃の金額を越えていた。夫はそのことに触れて、「久々の贅沢だね」と言って笑った。その顔がとても幸福そうに、衣津実には見えた。
「実は、仕事を辞めたんだ」、夫は穏やかな声でそう切り出した。「失業保険ももらえるし、貯金もけっこうあるし、しばらくゆっくりしても大丈夫じゃないの」。しばらく、という曖昧なことばで濁していると、自分でも分かった。二人の生活をこのまま継続させるために、自分を殺して生きていってほしい。違う。そんなことは思っていない。そんなわけがない。
「研志さんは、田舎に移住します」。義母からの電話にそう答える衣津実。・・・そうかわたしはあの町に帰るのか。東京で就職して結婚もして、もう二度と住むことはないと思っていた。帰る、とはっきりと自覚すると、田舎を捨てた罪悪感が足早に去っていった。それは気分がいいものだ。
結婚した方がいいから結婚をした。子どもがいた方がいいから作ろうとしたけど、できなかった。夫婦二人仲良く生きていく選択をした方がいいから、そうした。毎日がうまくいっていた。夫が風呂に入らなくなった。風呂は入った方がいいから、入れようとしたけど、入れなかった。川のそばで暮らした方がいいから、引っ越すことにした。わたしたちは夫婦だから、離れない方がいいから、付いて行くことにした。そうして並べてみると、まるでなにも考えていないみたいだけど、熟考して選んでないからといって、全てが間違いになるわけではない。無数に選択肢がある人生で、まっすぐここまで辿ってきた当たり前みたいな道を、おままごとみたいと、誰が言えるの。愛した方がいいから愛しただけだけど、ほんとうに思うの。
放流のサイレンが流れたのは、昼休みだった。「本日、ダムの放流を行っています。川が増水しています。危ないですので近づかないようにしましょう」。家はダムよりも上だから、そもそも放流とは関係がない。夫に「ダム放流しているらしいよ」とメールを送ったが、返信はなかった。これはもしかしたらまずいのかもしれないと思ったのはその目で川を見た時だった。水は川幅を越えて、河川敷の上まで流れていた。ダムを越える時、思わず一時停止した。流れるでもなく、溢れるでもなく、それは噴き出していた。内側から破裂する瞬間の勢いが連続しているような放出だった。
家に着き車を停め、傘をさして玄関まで小走りで向かう。「ただいま」と言いながら鍵を開けた。夫の姿はなかった。はっとする。そうだ、風呂場はまだ確認していなかった。音を立てて風呂場のドアを開ける。夫は風呂に入らない人だった。風呂くらい入らなくてもいいよと、彼女はほんとうに思うことができたのに、ほんとうにそう思っているのだと、伝えることはできなかった。
文章が上手い。途中でつっかえるところがまったくなく、ずんずん読ませます。なにかしら、隠喩のようなものがあるのかと思いながら読み進めたのですが、見つかりませんでした。全編、夫が風呂に入らないだけの話なので、選考委員にもよりますが、芥川賞は今回はちょっと無理かな?