辺見庸の「いまここに在ることの恥」(角川文庫:平成22年4月25日初版発行、令和3年3月15日4版発行)を読みました。
6月4日の「辺見庸公式ウエブサイト」を見ると、「キム・ギドクの映画をたてつづけに4本みる。」とありました。僕もキム・ギドクの映画は、ずいぶん昔ですが、ほとんど観ているので、妙に親近感がわきました。
「赤い橋の下のぬるい水」、これ、辺見庸の初期の作品です。今村正平が監督して映画化されました。アクセス解析を見ると、ここ最近、やらら上位に食い込んでいます。なぜそうなのかは僕にはわかりませんが…。
辺見庸の書かれたものは、最近「コロナ時代のパンセ」を読みました。「週刊現代」著者インタビューの写真、まるで強盗、殺人犯と自分でウエブサイトで言ってます。佐高信の書評がよかったですね。
長い間、彼の著作は読んでいませんでした。
次読もうと購入してあった「辺見庸完全版1★9★3★7(上・下)」(平成28(2016)年11月25日発行)も、積読状態。
「月」(角川文庫:令和3年2月25日初版発行)、「青い花」(岩波文庫:2020年11月13日第1刷発行)もあります。
NHKの「こころの時代」とか、講演会など、何度かテレビで観ました。病後のせいか話すのがつらそうでした。
それはそれとして、「いまここに在ることの恥」です。
石川淳の「マルスの歌」という作品を取り上げていました。早稲田大学の客員教授の時に「戦争と文学」というテーマのゼミで教材に使ったそうです。
ほんの短い小説ですが、おそらくファシズムというものの風景や空気、光の屈折ぐあい、波動の微妙な変化を表現したのに、これほど的確なものは、かつても、そしていまもないような気がします。
いま、たまたま、「最後の文人 石川淳の世界」(集英社新書:2021年4月21日第1刷発行)を読んでいる最中です。やはり石川淳の「マルスの歌」が第四章石川淳流「不服従の作法として山口俊雄が詳細に論じています。これがなかなか奥が深い。手ごわい相手です。急いで読まなきゃ…。
石川淳選集第一巻小説一
「マルスの歌」
この本のカバー裏には、以下のようにあります。
国家は人の内面に平気で入り込み、資本、一場、マスメディアと情報消費者が共犯関係を結ぶ。日常のなにげないルーティンを養分にして今風のファシズムが蔓延する時代。そこに拭っても拭いきれない罪や恥のにおいを嗅ぎつける著者が、屍臭に満ちた薄暗がりの内奥に眼を凝らし、躰のすみずみまで広がる恥辱の根源を問いただす。抗いがたい死の足音を聞きながら、突きあげる衝迫にかられてなし得た施策の極限。
目次は、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲに分かれています
Ⅰ 炎熱の広場にて―痛み、ないしただ見ることの汚辱
口中の闇あるいは罪と恥辱について
Ⅱ 邂逅―紅紫色の木槿のかげ
名残の桜、流れる花
各場と時間と死―『自分自身への審問』の場合
一犬虚に吠え、万犬それに倣う―小泉劇場と観客の五年間
Ⅲ いまここに在ることの恥―諾うことのできぬもの
1 時間感覚が崩れてから
2 憲法と恥辱について
3 公共空間と不敬瀆神と憲法
4 いわゆる「形骸」と「むきだしの生」
5 境界を越えること
あとがき
解説 五所純子
辺見 庸(へんみ・よう):(「コロナ時代のパンセ」刊行時)
1944年宮城県石巻市生まれ。70年共同通信社入社、北京特派員、ハノイ支局長、外信部次長などを経て96年退社。78年中国報道により日本新聞協会賞受賞、87年中国から国外退去処分を受ける。91年『自動起床装置』で芥川賞、94年『もの食う人びと』で講談社ノンフィクション賞、2011年詩文集『生首』で中原中也賞、12年詩集『眼の海』で高見順賞、16年『増補版1★9★3★7』で城山三郎賞を受賞。他の著書に『赤い橋の下のぬるい水』『ゆで卵』『永遠の不服従のために』『抵抗論』『自分自身への審問』『死と滅亡のパンセ』『青い花』『霧の犬』『月』『純粋な幸福』など多数。
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