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辺見庸の「コロナ時代のパンセ」を読んだ!

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辺見庸の「コロナ時代のパンセ」(毎日新聞出版:2021年4月25日発行)

を読みました。副題には「戦争法からパンデミックまで7年間の思考」とあります。

 

本の帯には、以下のようにあります。

人間とはなんであり、果たして、なんであるべきなのか?

戦争と専攻の人類史が、

いままたCOVID-19という荒ぶる「まろうど」を迎えた。

人倫の根源が抜け落ちた危機の7年間…。

凝視し、思索し、疑いつづける精神の結晶!

 

・・・結局、この世界的災厄のなかで目下勢いよく立ち上がっているものはなんなのか?それは人ではなく「国家」なのではないか。もしくは、眠っていた内面の「国家」幻想である。まったく不思議というほかない。緊急事態宣言の発出をより強く求めたのは、じつのところ政治権力ではなく、民衆と野党であったのだ。私権の制限、自由の制約を厭わない人びとを果たしてわたしたちは想定していたのだろうか。

「”まろうど”の正体をめぐって―『序』に代えて」より

 

いや~っ、辺見庸の話はたった7年間のことではあるけれど、国際情勢から民主主義、憲法問題から天皇制、東京五輪からコロナ問題など、ありとあらゆる問題を縦横無尽に駆け巡ります。こんな幅広く大きな問題を僕のごときがあげつらうことなどできようかと悩んでいると、そこはそれ、助け船が出てきました。それは先日読んだばかりの佐高信でした。佐高信は辺見庸に思想的にも近く、社会の対する態度も近しいものがあります。で、佐高信の「コロナ時代のパンセ」の評を、以下に載せちゃうという”暴挙”?に出ました。僕の文章よりもずっと分かり易く要点をついています。

 

「コロナ時代のパンセ」辺見庸著/毎日新聞出版

日刊ゲンダイ、DGITAL、BOOKS、BOOKSニュース、記事

コロナ禍で消毒を求められる。それを拒否するほどの“勇気”もないから、手指を洗い、うがいをする。
しかし、本来は毒というものは生きていく上で必要なものではないのか。それを消してしまって、あるいは消したつもりになって、生存できるのか。毒消しの作業は、いつか、精神にも及んでいくだろう。いや、精神こそが萎縮を迫られるのだ。
ほぼ同い年の辺見が共感を寄せる人間は、毒を好む者たちである。毒消しを好まぬ人たちだと言い換えてもいい。
船戸与一のわざとらしくなさを愛し、西部邁の孤愁を理解する。私も2人をよく知るだけに、彼らについて書いた辺見の一筆描きを繰り返し読んで、こうした出会いがあるから生きていられるんだよなあなどと感傷的になった。
「わけがあって1964年のことを調べていたら、想い出の風景やにおいが次々にわきでてきてとまらなくなった」とも辺見は書いている。無機質に見えて辺見の文章は無機質ではない。においを発している。
辺見が嫌うのは、無機質な分析をして、恥というものを知らない人間である。その筆頭に、おこがましくも、自ら「思想家」を名乗る内田樹がいる。あるいは、ことさらに有機的な形容で巫女のお告げのような言の葉を紡ぐ石牟礼道子もその一群に入る。
共通するのは「天皇主義」宣言であり、天皇制の受容である。
「明仁天皇とその配偶者の人気はいまや絶大である。その波にのるかのように、かつて天皇制をあれほどきらっていた作家や知識人、政治家らがこのところ、つぎつぎに宗旨がえしつつある。あたかも明仁天皇夫妻を慕うことが、ゴロツキ集団とみまがう自民党政権否定につながるとでも言いたげなのである」
内田を批判して辺見はこう書き、それを思想の劇的退行と呼ぶ。
私も別のところで内田の元号擁護論を排して、リベラリストを自称するなら、1946年1月12日号の「東洋経済新報」で「元号を廃止すべし」と主張した石橋湛山の爪のアカでも煎じて飲め、と断罪した。
辺見は「饒舌のなかには言葉はない」として、口をつぐんだままやれる仕事を探し、50代も半ばを過ぎていたのに日雇い労働者になろうとしたという。それだけに辺見の言葉は肉体から離れない。
(選者・佐高信)。

 

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