彼らは何を求めたのか。そして何を間違えたのか。
時代は終わっていない。
そこにかつて統治された国からの視点が重なる。
事件から半世紀が過ぎかけているからこそ、僕たちは
解釈の多様さを取り戻さなくてはならない。
―森達也(映画監督・作家)
[シアター]イメージ・フォーラムで、キム・ミレ監督の「狼をさがして」を観てきました。
東アジア反日武装戦線とは?彼らの行った企業爆破テロとは?
1974年8月30日。東京・丸の内の三菱重工本社ビルで、時限爆弾が爆発する。死者8名、負傷者約380名を出したこの事件は、日本中を震撼させた。事件から1ヶ月後、犯人が声明文を出す。『東アジア反日武装戦線“狼”』と名乗るその組織は、この爆破を“日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である”と宣言。その後、別働隊“大地の牙”と“さそり”が現れ、翌年5月までの間に、旧財閥系企業や大手ゼネコンを標的にした連続企業爆破事件が続いた。1975年5月19日。世間を騒がせた“東アジア反日武装戦線”一斉逮捕のニュースが大々的に報じられる。何よりも人々を驚かせたのは、その素顔が、会社員としてごく普通の市民生活を送る20代半ばの若者たちという事実だった。凄惨な爆破事件ばかりが人々の記憶に残る一方、実際に彼らが何を考え、何を変えようとしたのかは知られていない。時は流れ、2000年代初頭、釜ヶ崎で日雇い労働者を撮影していた韓国のキム・ミレ監督が、一人の労働者から東アジア反日武装戦線の存在を聞き、彼らの思想を辿るドキュメントを撮り始めた。出所したメンバーやその家族、支援者たちの証言を追う中から、彼らの思想の根源が紐解かれていく。高度経済成長の只中、日本に影を落とす帝国主義の闇。彼らが抗っていたものとは、何だったのか?彼らの言う“反日”とは?未解決の戦後史がそこに立ち現れてくる……。
監督のキム・ミレは、以下のように言う。
70年代の日本において、戦時中の日本国家に搾取され殺された東アジアの人々の「恨みと悲しみ」を胸に、自らが生活している社会の正義のため正しいと思ったことを行動に移し、最後までやり遂げようとした若者たちがいました。しかし、そのために8名の人が命を失い、多くの負傷者が出ました。彼らは逮捕されたのちに、刑務所の内外で長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向きあって生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも「加害事実」に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを自問する時間をくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。観客の皆さんにも問いが生まれることを期待しています。
以下、シネマトゥデイによる
見どころ:
1970年代に連続企業爆破事件を起こした政治闘争組織「東アジア反日武装戦線」についてのドキュメンタリー。三菱重工本社ビル爆破事件などを決行した彼らの思想などを、出所したメンバーや家族、支援者らの証言を通してひもといていく。監督を務めたのは韓国と日本の労働運動や人権問題に関する作品を制作し、『外泊』が山形国際ドキュメンタリー映画祭2009においてアジア千波万波部門特別招待作品として上映されたキム・ミレ。
あらすじ:
1974年8月30日。東京の三菱重工本社ビルで時限爆弾が爆発し、8人が死亡、300人以上が負傷する。その後も、旧財閥企業や大手ゼネコンで次々と爆破事件が発生。犯行に及んだのは「東アジア反日武装戦線“狼”」を名乗る組織だった。反日思想や爆弾の製造方法などについて書かれた組織の教本「腹腹時計」には、帝国主義者の子孫であることへの加害者意識が記されていた。
キム・ミレ:
監督・プロデューサー・共同企画
1964年、韓国生まれ。韓国外国語大学ドイツ語専攻を卒業後、韓国独立協会の運営委員を務める。2000年頃から韓国と日本の労働運動や人権問題に焦点を当てたドキュメンタリー制作を始める。 初の長編作品We are Workers or Not (03)はフリブール国際映画祭でドキュメンタリー賞を受賞。その後、日本の日雇い労働者を描いた『土方』(05)でソウル人権映画祭人権映画賞を受賞。2007年に韓国で起きた女性労働者の占拠運動を描いた『外泊』(09)は山形国際ドキュメンタリー映画祭のアジア千波万波部門特別招待作品に選出された。SANDA: Surviving (14)では韓国のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭で最優秀韓国ドキュメンタリー賞を受賞した。
「狼をさがして」予告編
朝日新聞:2021年4月2日
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