世田谷美術館で「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」を観てきました。今までまとまって観た「岸田劉生」展は、二度ほどあります。一度は損保ジャパン東郷青児美術館で、もう一度は八王寺夢美術館でした。八王寺夢美術館で展示された作品は、笠間日動美術館が所蔵する作品でした。それぞれに特徴がありました。記憶をたどってみると、損保ジャパンの方は、自画像が多く、一方、八王子の方は、岸田劉生を幅広く掘り下げていたように思います。八王子で劉生の日本画を始めて観ました。
今回の世田谷美術館では、「岸田吟香・劉生・麗子―時代を超えて個を貫いた親子三代の物語」とある通り、劉生の父親・吟香、そしてあまりにも有名な娘・麗子の3人を、それぞれに取り上げています。吟香は激動の幕末・維新期に、開明派の文化人として各方面で活躍しました。また、劉生が38歳で早世した後、麗子は演劇人として画家としての生涯を生き、晩年には父・劉生の評伝を書き上げました。今回の展覧会は、それぞれの個を貫いた親子三代の物語、と言えます。
また、「吟香と美術」の章では、チャールズ・ワーグマン、高橋由一、五姓田義松、渡辺幽香、山本芳翠、川村清雄、小林清親、等々の作品も展示されています。
劉生の「画家の妻」と「支那服着たる妹照子之像」も良い作品でした。今回の目玉はなんといっても「麗子像」であることは言うまでもありません。まず最初に、世田谷美術館のメインホールである1/4円の展示スペースに、7つの「麗子像」関連の作品が展示されています。以下、7つのタイトルを載せておきます。
・「麗子座像」
・「二人麗子図(童女飾髪図)」
・「野童女」
・「童女図(麗子立像)」
・「麗子立像(未完)」
・「麗子立像(お手玉をとる)」
・「麗子十六歳之像」
展覧会の構成は、以下の通りです。(「出品作品資料目録」による)
第1部 岸田吟香
第1章:吟香その人
第2章:吟香の活動
第3章:吟香と美術
第2部 岸田劉生大正洋画壇の異色の星
第1章:銀座生まれ・銀座育ちの劉生
第2章:洋画家・劉生の仕事
第3章:多芸多才の人・劉生
第3部 岸田麗子劉生の愛娘・昭和を翔る
第1章:劉生とともに
第2章:表現者としての麗子
第1部:幕末・維新の先覚者、岸田吟香
美作国(現・岡山県)の山間の地に生まれた吟香は、津山・江戸・大阪に出て学問修行に励みましたが、幕末の動乱期には思想上の嫌疑をかけられ市井の一隅に身を潜めるなど、波乱万丈の青年期を過ごしました。やがてローマ字を考案した医師・ヘボンに出会い、和英辞書編纂の手伝いや新聞の発行、上海への初渡航や新航路開発の計画など、にわかに活動の幅を大きく拡げてゆきます。その後、さまざまな事業を興しつつ維新を迎え、40歳のときには『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の主筆となって人気を博しました。幕末より手がけてきた液体目薬「精錡水」の製造販売に本格的に乗り出したのも、この頃のことです。東京・銀座に薬舗「楽善堂(らくぜんどう)」を構え、そこを拠点に事業家、出版人、思想家、文筆家として八面六臂の活躍を見せ、明治という新時代の建設に大きく貢献しました。盲学校を設立したのもその功績のひとつです。しかし 日露戦争のただなか、病に倒れて72年の生涯を閉じました。
第2部:父親ゆずりの反骨の士、岸田劉生
東京・銀座の煉瓦街で大きな薬舗「楽善堂」を営んでいた父・吟香のもと、14人兄弟姉妹の第9子として生まれた劉生は、21歳になるまでの青年期をそこで過ごしました。銀座生まれ・銀座育ちの都会っ子だったのです。その後、結婚を機に都心を離れ、代々木・駒沢・鵠沼へと居を移して、画家としての成熟期を迎えます。「内なる美」を求めて写実を極めんとし、次々と〈麗子像〉を描き重ね、やがて「東洋の美」へと大きく傾斜してゆきました。震災を機に移り住んだ京都では、宋元の絵画や浮世絵など古美術に魅せられつつ、自身は南画風の日本画を多数描いています。若くして官展からは遠のき、旧来の芸術には背を向けて、大正期の特色を示す「個の表現」を求め、また、多くの独創的な芸術論をしたためました。そして最晩年には洋画という枠すら飛び越えてしまった劉生は、まさに破格の画家であったといえるでしょう。初の海外渡航となった満州からの帰路、山口の地で客死し、毀誉褒貶の激しかった生涯を38歳の若さで閉じました。
第3部:劉生没後の岸田麗子、表現者としての生涯
父・劉生が代々木へ居を移してまもなくのこと、麗子は誕生しました。溢れんばかりの愛情を受けて成長した麗子は、鵠沼の地で4歳のときから、以後10年あまり、父のためにモデルを務めました。単にモデルというにとどまらず、麗子は劉生にとってのミューズ、芸術創造の源泉となったのです。その父が1929年に急逝したとき、麗子はいまだ15歳の少女でした。しかし、絵を描きはじめるとともに、父の旧友であった武者小路実篤に私淑し、「新しき村」の演劇部に入って役者として舞台に立つようにもなりました。その後、家庭を持ち、三児の母となってのちも、そこにはつねに演劇や絵画、戯曲や小説などを作り出す表現者としての日々がありました。父が遺した膨大な量の日記を精読し、それをもとに魅力溢れる評伝を書き上げたのち、麗子は急逝、48年の生涯を閉じました。
「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」
─時代を超えて個を貫いた親子三代の物語
愛娘をモデルとした〈麗子像〉の連作で広く世に知られている画家・岸田劉生は、独自の美を求めて葛藤を重ねた大正洋画壇の巨星でした。その劉生には、傑物ともいうべき父がいました。その名は吟香。激動の幕末・維新期に、洋の東西を遠く見すえた開明派の文化人として、各方面で活躍しました。また、劉生が38歳で早世したのち、長女・麗子は演劇人・画家としての生涯を生き、最晩年には詳細にわたる父・劉生の評伝を書き上げました。本展では、吟香にまつわる稀少資料や、吟香と交流のあった同時代人の作品に加え、劉生の代表作〈麗子像〉やそのモデルとなった麗子の遺作などを一堂に集めて、それぞれの個を貫きとおしたこの稀有なる親子三代の物語をたどります。独りわが道をゆくことを恐れなかった生き方は、明治・大正・昭和を通して、吟香・劉生・麗子に等しく見られる資質です。本展の目的は、時代を超えたこの知られざる精神の系譜を、日本近代史に照らして探るところにあります。
「世田谷美術館」ホームページ
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