上は、朝日新聞朝刊(2014年4月2日)の記事です。いつものように編集委員の大西若人の署名入りの記事です。リード記事、「坂茂さんにプリツカー賞 疲れを知らない建築家」を書いたのも大西若人です。今回はもうちょっと掘り下げて、「プリツカー賞 坂茂 異能の証明」というのがキーワードです。過去に建築のノーベル賞と言われるプリッカー建築賞を受賞した日本人建築家は6人、坂茂が7人目です。
しかし今回の決定は、坂が「建築界でも稀な存在」と言われてきたように、過去の6人とは“立ち位置”がかなり異なる、と大西は言います。それはどういうことなのか?20世紀初頭、鉄とガラスとコンクリートによる直線的で無装飾のモダニズム建築が確立されました。日本の木造建築にも通じる部分もあり、日本人建築家はモダニズム建築を洗練させて高い評価を得てきました。
これに対し坂茂は、今までのモダニズム建築には収まりきらない建築家だと、大西は言います。紙管やコンテナを使ったり、材料や工法もモダニズム建築とは大きく異なります。また災害被災地での活動も、今までの建築家とは大きく異なります。阪神大震災では紙管の教会や仮設住宅をつくり、トルコ、イタリア、中国の大災害でも、自ら動きました。東日本大震災では用地不足の女川町で、コンテナを重ねた3階建ての仮設住宅をつくりました。もともと国連難民高等弁務官事務所に、坂が紙管でつくる避難民のための住居を売り込んだのが始まりと言われています。
1995年10月、世田谷で「阪神・淡路大震災後方支援に学ぶ」というシンポジウムを行った際に、世田谷区内に事務所のある坂茂にパネラーとして来ていただいたことがありました。その時に、建築界のなかで“パラダイムシフト”が起こったと、僕は感じました。坂は日本の正規の建築教育を受けていない建築家です。トーマス・クーンの言うように、変革者は非常に若いか、危機に陥っている分野に新しく登場した新人であって、古いパラダイムで決定される世界観やルールの中に他の人たちほど深く埋没されていない人、です。坂のように、異分野からの参入が職能で凝り固まった既成の世界を切り崩したのでした。
坂の原点には「建築家は財力や政治力のある人のための仕事はするが、医者や弁護士のようには社会に役立っていない」という思いがあるという。磯崎新は坂を「アクティビスト・アーキテクト(社会活動家的な建築家)」と表現したという。大西は、日本の建築家が得意とする細かい仕上げや洗練よりも、新しい工法や素材への挑戦を重視し、社会で役立つことへの強い意志を持った建築家、と評します。
以下の画像は、8月28日に僕が女川町を訪れたときの画像です。
体育館内の簡易間仕切りを見たときは、胸が詰まりました。
野球場では3階建てのコンテナ仮設住宅の基礎工事が始まっていました。
女川運動公園体育館・避難所
女川運動公園・仮設住宅
海上輸送コンテナ活用
坂(ばん)茂氏「多層コンテナ仮設住宅」
完成直前の3階建て仮設住宅。色が塗られた部分がコンテナ(10月27日、宮城県女川町)
宮城県女川町の町民野球場で6日、3階建てコンテナ仮設住宅の入居が始まった。避難所の間仕切りや、紙管による建築で国内外の災害救援を行う坂茂氏が、平地が少なく用地が足りない同町に提案した。坂氏の仮設住宅案が、日本で実現したのは初めてだ。海上輸送用コンテナ(長さ6メートル、幅2・5メートル)を重ねた2階建て3棟45戸、3階建て6棟144戸を設計。前もって製造工場で窓などを開けたコンテナと、フレームを互い違いに積み、フレーム部分も部屋にするなど、合理化を図った。10月中旬から2階建てコンテナ仮設住宅に住む被災者は「住み心地は快適。鉄骨も見えないし、音も気にならない。普通のアパートみたい」。坂氏は「仮設住宅はあまりにも質が悪い。もっと質を上げる必要がある」と語り、これを一つのモデルとしたい考えだ。
(2011年11月11日: 読売新聞)
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