「伊達政宗公の霊屋 瑞鳳殿」を見学しました。
仙台藩祖伊達政宗公は永禄10年(1567)米沢城に誕生し、18歳で伊達家を相続しました。以来、卓越した武将として南奥羽を支配し、「独眼竜政宗」の異名を天下に轟かせました。天正19年(1591)豊臣秀吉の命により、米沢から岩出山(宮城県北)に移り10年を過ごした後、慶長6年(1601)徳川家康の許しを得て、35歳の時仙台城を築き、以後、仙台藩の政治、産業、文化の振興に尽くし、また、スペインとの通商貿易を試み、家臣支倉六右衛門常長を使者としてヨーロッパまで派遣するなど、伊達62万石の基礎を築きました。
瑞鳳殿境内の霊屋など
瑞鳳殿
瑞鳳殿は1636(寛永13)年、70歳で生涯を閉じた仙台藩祖伊達政宗公の遺命により、その翌年ここ経ケ峯に造営された霊屋(おたまや)です。桃山様式の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931(昭和6)年、国宝に指定されましたが、1945(昭和20)年の戦災で惜しくも焼失しました。現在の建物は1979(昭和54)年に再建されたものです。
涅槃門:瑞鳳殿の正面門は「涅槃門」と呼ばれています。「涅槃」とは「煩悩を取り去った悟りの境地となる状態」を意味し、広くは「来世(死後の世界)」という意味にもなります。瑞鳳殿の涅槃門は、樹齢数百年の青森檜葉を用いて焼失前と同様の豪華なかざり彫刻が施されています。扉正面には菊紋があります。菊紋は、皇室の御紋として知られていますが、皇室に功労があった者に下賜される場合もあります。豊臣秀吉が下賜されたものを、伊達政宗が拝顔したといわれ、伊達家の家紋として用いました。
感仙殿
感仙殿は二代藩主伊達忠宗公(1599~1658)の霊屋であり、瑞鳳殿と同等の華麗なものでしたが、明治初年に本殿を除いて取り壊され、残った本殿も昭和20年の戦災で焼失しました。現在の霊屋は瑞鳳殿に続いて再建が進められ、昭和60年に完成したものです。
善応殿
善応殿は三代藩主伊達綱宗公の霊屋で、感仙殿と同様に造営されましたが、昭和20年の戦災で焼失し、昭和60年感仙殿とともに再建されました。善応殿には焼失以前の資料が乏しかったので、種々検討の結果、綱宗公が好んで描かれた「鳳凰」と「牡丹」を装飾に採用しました。
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