玄侑宗久の「さすらいの仏教語 暮らしに息づく88話」(中公新書:2014年1月25日発行)を読みました。玄侑宗久は2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞した作家で、「中陰の花」は受賞時に文藝春秋で読んだ記憶があるのですが、内容はほとんど覚えていません。その他の著作は、僧侶ということもあってか、今まで敬遠していて、一冊も読んだことはありませんでした。
先月、毎年今ごろ症状が出て来る花粉症があまりにも酷いので、近所のかかりつけの町医者に行ってきました。小児科もやっているので、待合室はたいへんな混みようでした。長く待つのもなんだと思い、待合室の本棚にあった書名の見馴れた本を手にとって読んでみました。齋藤孝の「声に出して読みたい日本語」という本です。暗誦の大切さを説いている本で、一大ベストセラーになったことは知っていました。僕はベストセラーものは敬遠して読まないし、齋藤孝の本は一冊も読んでいません。しかし待ち時間の間に読んだ「声に出して・・・」は、これがなかなか面白くて、買って読んでみたいとも思ったりもしました。もちろん、買いませんけど・・・。
玄侑宗久の本、小説以外にもかなりの部数を誇る宗教ものが数多く出ています。テレビなどにも出演しているし、住まいは三春桜で知られている福島県三春町なので、東日本大震災にかかわる発言も数多くしているようです。「仏教のこころ」なんて、辛気くさくて読めないなどと初めは思っていましたが、上のこともあり、読んでみるのもいいかなと、思い直しました。読んでみるとなかなか面白く、いわゆる仏教語とは違い、辛気くさいどころか、赤面するような字句もたくさん出てきます。玄侑サンも隅に置けない、くだけたところのあるお方です。
著者の玄侑宗久は「さすらいの仏教語」について、「はじめに」で以下のように述べています。
人は誰しも子どもから成長し、やがて老いる。そこで日本人は、変化に応じて名前を変える習慣をつくった。・・・内実の変化に応じ、いやむしろ変化を促すように、呼び方を変えるのである。内実が変わったのに言葉が変わらないと、言葉そのものの意味が変質していくほかはない。それがこの本の「さすらい」である。・・・多くはインド、中国などを起源とし、日本でもその意味する内容を微妙に変化させつつ生き延びてきた。・・・なんといっても生き物だから、起源から遙かに「さすらい」ながら逞しく生きていくのである。
なかには起源と裏腹な意味に、無節操なほど変化した言葉さえある。・・・ただ、長い歴史的変遷を経たこと場立ちの苦難。・・・若い頃のこともいろいろ知ったうえで、いま年老いた人びとにも向き合いたい。それが「さすらいの仏教語」を書こうと思ったキッカケである。思えばそれは、僧侶にとっては普段の檀家さんとのつきあいそのものではないか。仏教語ばかりを選んだのは、私が僧侶であることよりも、仏教語の寿命があまりにも長く、変遷も幅広いからに他ならない。
いろいろな言葉が出てきますが、たとえばこの本の2番目に出てくる「莫迦」の項は、以下のようにあります。
以前、「全国アホ・バカ分布孝」という本があった。題名に似合わずまじめな言語学の本で、柳田国男さんの「蝸牛孝」を推し進める形で言葉の発生と伝播について論じていた。つまり昔の言葉のほとんどは京都で作られ、それが同心円状に伝播したというのだが、そのサンプルとして貶し言葉の変遷を追っているのである。それによれば、京都周辺で使われている「アホ」などの言葉は新しく、東北や九州まで伝わった「バカ」「ヲコ」などはもっt古いことになる。「ヲコ」は「おこがましい」で、なんとか今に残っている。
「バカ」の語源を中国や、サンスクリットからひもとき、いろんな説を出して検討します。そして最後に以下のように結びます。それでも「バカ」という言葉は「アホ」よりも侮蔑度がつよいので、ご使用に当たっては最新の注意が必要になる。上に「いやん」をつけると途端に柔らかくなるが、それでは締まらない。さても日本語は難しい。
ほかに例えば「ふしだら」。「ふしだら」といえば、主に男女関係に「だらしない」ことだが、この「だらしない」と「ふしだら」、なんだか似ていると思わないだろうか。それもそのはずで、この二つは仏教語にもよく見かける逆さ言葉の関係にある。「不しだら」と書けばわかりやすいだろう。この「しだら」を意味的にも反転させた言葉が「だらし」なのである。
あるいは「ご開帳」。本来これは、大切なご本尊などを実際に拝む機会を設けることだが、どうも近頃はストリップ劇場でもお馴染みのようである。たしかにアレも大切なご本尊なのだろう。しかし大切ならば、そう簡単にご開帳してはいけない。一日何度もご開帳するのでは、有り難さも薄れるというものだ。
あるいは「冥利」。「夕涼みよくぞ男に生まれけり」という句がある。たぶん夕方風呂上がりに浴衣の裾などはだけながら、胡座で団扇などを使っているのだろう。女ではそこまではしたない恰好はできないから、ああ、男に生まれてよかったと、感じ入っているのである。簡単に言えば「男冥利に尽きる」ということである。
等々、例をあげたらきりがない。読んだほうがはやいですよ。
本の帯には「意外な言葉が教えてくれる 仏教のこころ」とあります。
本のカバー裏には、以下のようにあります。
私たちの周りでは仏教由来の言葉が数多く使われている。「阿弥陀クジ」「あまのじゃく」など納得の言葉から、「砂糖」「ゴタゴタ」「微妙」といった意外な言葉、そして「魔羅」「ふしだら」「女郎」なんて言葉まで! 仏教語はどんな「さすらい」の旅を経て、今日の姿へと変貌したのか。はじめは驚き、やがて得心、最後には仏教の教えが心に響く――。禅宗の僧侶にして、芥川賞作家ならではの仏教エッセイ。
玄侑宗久:略歴
1956(昭和31)年、福島県三春町生まれ。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業、さまざまな経験をした後、京都・天龍寺専門道場に入門。現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺第35世住職。2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞。著書(小説)、「アブラクサスの祭」(新潮社)、「アミターバ 無量光明」(新潮社)、「御開帳綺譚」(文藝春秋)、「四雁川流景」(文藝春秋)、「リーラ 神の庭の遊戯」(新潮社)、「テルちゃん」(新潮社)、「光の山」(新潮社)など。(その他)、「禅的生活」(ちくま新書)、「現代語訳 般若心経」(ちくま新書)、「無常という力 『方丈記』に学ぶ心の在り方」(新潮社)、「祈りの作法」(新潮社)、「日本人の心のかたち」(角川SSC新書)など。