小山田浩子の芥川賞受賞作「穴」を読みました。「私は夫とこの街に引っ越してきた」という書き出しで、この物語は始まります。
夫に転勤命令が出、異動先は県境に近い田舎の営業所、営業所のある市が夫の実家のある土地で、手頃な物件でも知らないかと夫が姑に電話をかけると、「じゃあうちの隣に住めば? うちの借家があるじゃない。ついこの間空いたのよ」と、姑は言います。家賃はと聞くと「田舎だもん、5万2千円」と言う。「5万円台なら、今よりだいぶ安いし」と言うと、「家賃なんて要らない。その分貯金しときなさい、将来のために」と姑は言う。夫はどうする、と目で言ったが、私に異論のあろうはずがなかった、ありがたい以外の何物でもない。
夫は「助かるよ。あさひも仕事辞めるし、家賃が浮くのはすごくありがたい」、姑は「え? あさちゃん辞めちゃうの」と、姑が少し声を小さくした。姑はずっと働いてきた職場で、来年だか再来年だかに定年を迎えるそうだ。「そういや、職場にもう辞めるって言ったの?」と夫。「うん、今日」「引きとめられた?」「全然」。夫は携帯を触る手を止めることなく「あんだけこき使っといて、そんなもんかね」と言った。「そんなもんだよ、だって調整弁だもん、非正規なんて。でもあっちに引っ越したら、それこそパートさんみたいな仕事しかないだろうね。もう今年30だし」、「次の仕事もさ、家賃ただなら急いで探すこともないんじゃないの」、「あっ、そうか」と私は笑った。
引っ越し当日は大雨の日曜日だった。当日朝一番にやってきた引っ越し業者は気の毒そうな顔をしたが、私はそれ以上に、雨の中を大型の家具を運ぶ彼らが気の毒だった。荷物がトラックに積まれ、私と夫は車に乗った。夫は音楽をかけたが、私は気がつくと眠っていた。目覚めるとそこはもう夫の実家の前で、姑が玄関のひさしの中に立っていた。引っ越し作業の陣頭指揮は姑が取った。「人生に何回もないような引っ越しの日に、大雨洪水警報が出るのが俺の人生なんだよなあ」と夫は笑った。雨脚は寝るまで弱まらなかったが、翌朝目が覚めると、2階の窓から白く乾いた空が見えた。今までより早起きしたのに、もう太陽の光が満ち始めていた。私は一瞬、とても遠い、今までとは一日や四季のリズムから異なるような場所に引っ越した気がした。
家から少し歩いたところに大きな川がある。川の気配のようなものは川が見えなくてもそこらに漂っていて、蒸されたような草いきれや、淀んだ水の匂いで私に感知された。川と反対側には山もあり、見上げるとその中腹まで灰色の家でびっしりと覆われている。比較的新しい分譲地なのだそうだ。夫は車を通勤に使うので、私の移動手段は徒歩かバスということになるが、バスは通勤時間以外は1時間に1本あるかないかで、それに乗ってもJRの駅まで40分近くかかる。いきおい私は家にいることが多くなった。私は夫を送り出して自分の朝食を食べ、歩いてスーパーへ行き、洗濯なり掃除なりをしてあとは特にすることがない。一週間で飽きる、と思ったが実際は一日で飽きた。一度飽きてしまえば、それは普通になった。
ソファでうつらうつらしていた私の携帯に、姑から電話がある。今日の日付を勘違いしていて、お金を振込票と一緒に用意していたのに家に忘れたので、コンビニでいいから振り込んで欲しいという依頼でした。姑からの電話を切ると、私は借家の隣に建っている、夫の実家に行った。庭では義祖父が水を撒いていた。門をくぐった私に気づき、語祖父はにっこり笑って片手をあげた。玄関の引き戸を開けた。靴箱の上に封筒はなかった。仏間に入ると、座卓の上に茶封筒があった。中を見ると振込票と紙幣があった。コンビニの場所は知っているが、引っ越してから今まで行ったことがない。スーパーの方がより近いし、コンビニでなくては手に入らないものが欲しかったことはない。
向かう道筋は川沿いの遊歩道で、季節が良ければ素晴らしい散歩コースになるだろう。冬には渡り鳥が飛来するので観察するとよいという看板も立っていた。ただ、今は夏だ。野天の舗装道を歩くのはしんどいし、暑い。風もない。蝉の声が空気の粘度を増している。川土手は繁茂した草に覆われていて、遊歩道から見下ろすと水面さえほとんど隠れそうになっている箇所もあった。大きな茶色いイナゴが土手の草むらから飛び出した。私と対峙するようにイナゴは数歩こちらに歩いてから、急に翅を広げて飛んで行ってしまった。向かった先に視線を向けると、黒い獣が歩いていた。
暑さのせいで目が変になったのかと思ったが、何度見てもそれは生きもの、明らかに哺乳類の何かの尻から脚にかけてだった。黒い毛が生えていて、大きさは中型の犬くらい、いやもっと大きいか。それはトコトコと先を急いでいた。人も犬猫も小鳥もカラスも見当たらない路上で、ただ獣だけが歩いていた。私を先導するかのようにさっさと歩いている。私はそれを追って歩いた。獣はすっと土手の方に曲がった。繁茂している草がそこだけ、何度も踏まれた獣道のようになぎ倒されていた。獣は土手を降り始めた。私は思わず同じように土手に足を踏み入れた。獣のシリが草の間に隠れようとした。私は脚を踏み出した。そこに地面はなかった。
私は穴に落ちた。脚からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両足がついた。私の体はどこも痛くない。穴は胸くらいの高さで、ということは深さが1メートルかそこらあるのだろう。私の体がすっぽり落ち込んで、身体の周囲にはあまり余裕がない。まるで私の多目に誂えた落とし穴のようだった。穴の中の居心地は悪くなかった。妙に清々しい空気が穴の中に満ちていて、私の体を浸しているような気がした。はまり心地はいいのだが、出るとなれば少し苦労しそうだった。私は早く穴から出なければと思った。「大丈夫?」後から声がした。振り返ると、そこには白いスカートをはいた脚があった。
女性は屈み込んで私に手を伸ばした。かなり年上のようだったが、姑や私の実母よりは下だろう。「サン、ニ、イチ」と女性は言い、ぐっと私の手を引っ張った。私は引っ張り上げられ、腰を草の上に投げ出した。「ねえねえ、あなたこの前引っ越してきたお嫁さんでしょう」、私は「へ」と応えて女性の顔を見た。「私ね、松浦さんのお隣に、あなたたちが住んでるのとは反対側の隣に住んでる、世羅っていうの」、夫の実家の反対隣には大きな立派な家がある。挨拶はしないでいいと姑に言われていた。それはその家だけではなく周囲の家もだ。
「ねえ、お嫁さんは今、道に迷っているわけじゃないのよね?」、「え、はい、あの、道はわかります、コンビニはあっちです」、「そうよ、あっち」。お嫁さん、と呼ばれる度に妙な気がした。私はお嫁さんになったのだ。とっくになっていたのに気づかなかったのだ。「ねえ、お嫁さん。松浦さん、いい人よ、いい人がお舅さんでよかったわね」、「そうですか、そうですね」私はうなずいた。土手を登ってしばらく歩き、橋を渡ると、渡ったすぐ先の思った通りの場所にコンビニがあった。
引っ越しの日以来ほとんど2ヶ月近くぶりに雨が降った。2階にある西を向いた窓から、義祖父が見えた。義祖父は庭に立っていた。合羽を着ている。私はしばらく義祖父を見下ろしていた。そしてがく然とした。義祖父は、ホースを手に、庭に水を撒いていた。玄関のチャイムが鳴り、出ると、世羅さんの奥さんが立っていた。雨脚は強まっていた。「ねえムネちゃんお元気?」、この人からすると、姑が松浦さんで、舅はご主人で、夫はムネちゃん、そして私はお嫁さんなのだ。「お嫁さは、お仕事されてないの?おうちで何をしているの?」「今は、仕事はしてないです。探してるんですけど、なかなか」、「じゃあお嫁さん暇なのね。暇なのはしんどいわね。人生の夏休みね」、私はうなずきそして、覚えず涙が出そうになった。
必死で探せば、職は絶対に何かあるはずなのだ。ただ、私はそこまでして、働きたい、働かねばと思ってはいない。その思ってはいないということが一番こたえていた。別に私が働かなくても暮らしていける。家賃はかからない。私が今までしていた、非正規とはいえフルタイムの仕事は、実は、家賃がただになり、その他の諸経費が安くなれば別に絶対必要ではないものだったのだ。そのことに、私は徒労を感じていた。人生の夏休み、もしかしたらそれは終わりが来ないかもしれないのだ。
私は夫を送り出してから夫の実家に行った。義祖父はやはり、私が目覚めて見てから既に数時間は経っているのにまだ、当たり前のように水を撒いていた。姑はもう出勤していた。「いつまで水撒くんですか?」大声で言ってみたが、義祖父は無反応で、私が仕方なく数歩庭に入っていくと、振り返り、片手をあげて歯を出して笑った。もはや笑顔にさえ見えないが、それが笑みだと信じなければしょうがない。地面はもうどろどろだった。
私が立ちつくしていると、門からあの黒い獣がとことこと歩いて入ってきた。それが私をぎろりと見た。この前見た時よりも毛が柔らかそうに見えた。尾も短く見えた。獣は確信ある足取りで庭を横切り、母屋の裏へと入って行った。私は獣を追いかけた。母屋と隣家の境にはブロック塀があった。ブロック塀と母屋との間に人一人がやっと通れるような隙間があった。陽が入らないらしいそこは暗かった。その隙間の向こうに、動物の後ろ脚と尾がちらりと見え、角を曲がったように消えた。獣の姿はなかった。
代わりにそこには中年の男の人がいた。私は硬直した。その男の人は私を見た。髪の毛が黒くて細身で、白い開襟シャツを着ていた。男の人は笑いながら「こんにちはっ!どちらさまですかっ」と言った。「この家の、隣に住んでいる、この家の・・・」「ああ、お嫁さんだ、少し前越してきたんでしょう」、男の人は気さくに言った。「僕はね、この家の長男で、宗明の兄ですよ。宗明とは歳がかなり離れているんだ僕ぁ」、「は?」私は口を開けた。「あなたの義兄ですよ、お嫁さん。どうもこんにちわ」。
夫は一人っ子で長男のはずだ。兄?「その顔は知らなかったんでしょう。それも道理だ。これは一種の悲劇なんです。僕ぁね、このね、掘立小屋、物置ね」と言いながらプレハブを指さした。「ここで一人暮らしをしているんです。もう20年近く」「20年?」私がぎょっとして聞き返すと、「今風に言うとヒキコモリとかニートとかそういう類ですよ」。夫に兄?義兄?どうして誰もかれも私のことを知っているのに、私は向こうのことを何も知らないんだろう。
「じゃあさて、あなたは誰で、どうしてここへ?」「え?何か今、黒い動物が見えて・・・」「ああこれ」男の人は地面を指さした。そこには丸い穴が開いており、上に格子状の金属の蓋がはまっていた。「その中にいます」、「この穴はうちの古い井戸でね、この家は割合水っぽいところに建っているんだ。その穴が、こいつが掘る巣穴と似ているんでしょうね、それで、いつの間にか入り込んでこうやって寝たりするんだ」。私はこわごわその格子の上に足を載せた。口径は私の体より一回りくらい大きい。見た目は川原で私が落ち込んだ穴とそっくりだった。
「私こないだこんな風な穴に落ちたんです。川原で、この、黒い動物がいて、追いかけていたら落ちたんです」と言った。「へえ。馬鹿だね」言葉は吐き捨てられた。「僕なら絶対そんなことはしませんね。何だい、お嫁さんは不思議の国のアリスなの?なんだっけ、ウサギちゃんを追いかけていたら穴に落ちて大冒険が始まるんだ」、男の人は肩をすくめた。私ははっとした。そのすくめ方は姑にそっくりだった。いよいよこの人は本当に夫の兄で姑の息子なのだと思った。兄弟を、しかも結婚相手に隠しておくことなどあるだろうか。本当に義兄なのか、どうして今まで黙っていたのか、これからもずっと彼が裏庭の掘立小屋で暮らすのと共存していくつもりなのか、老いたらどうするのか・・・夫に、あるいは姑にそれを尋ねる言葉を考えるだに暗い気持ちになった。
「あいつはね。ほとんど人には懐かない。ほとんどというか僕の知る限り皆無だね。どういう経緯でここに住んでいるのかもわからないし。一匹オオカミ。もちろん「オオカミじゃないけどさ」義兄は喋り続けていた。「何年も仲間もいないまま穴を掘っているんだ。悲劇的でしょう。何せもう何年も、成長したり痩せたりしたのを見たことがないよ。一匹こっきりで世代交代もないだろうし、寿命がどれだけあるか知らないけど、ずっと一人で太りも痩せもせず穴を掘って穴に入ってまた出て歩き回ってさ。まるで僕みたいじゃないか。僕はそれなりに老けてはいるけど・・・でも基本的に20年前に隠遁してから何一つ変わっていない」。
私は義兄に尋ねた。「どうして家を出たいと思ったんですか」義兄は悲しそうな顔をしてみせてからすぐ破顔一笑した。「家族と合わなかったんだなあ!」と叫んだ。夜中、まだ真っ暗な窓の外でかすかな音がした。ベッドから出て外を見た。人影が門のところを歩いて出て行くのが、見えた。義祖父に見えた。私はそっと寝室を出、急いで階段を降り、外に出た。義祖父の背中を探した。急に誰かの背中が現れた。「お嫁さん?」義兄だった。「あ・・・今」「ジイさんでしょ」白いシャツを着た義兄が指さした先に、大股で歩く義祖父の背中があった。義祖父の足は速い。私はあまり速足になるのが怖いような気がしたが、それでもついて行った。義祖父は川沿いの遊歩道に入った。私たちもそうした。
義祖父は土手を降りているらしかった。そして姿を消した。「穴だ」義兄は言い、そこに立ちつくした。「穴ですか」私は聞き返したが、義兄は何も言わなかった。川原に開いた大きな穴から義祖父の頭だけがとび出していた。私はその傍らに開いていた穴に入った。柔らかいものを踏んだ。何か目が瞬きながら私を見上げていた。獣だった。「宗明がさ」上の方から義兄の声がした。「帰ってくるとは思わなかったんだ。嫌がってると思ったから」「何を?」「僕がいる、いた、この家をさ」義祖父は天を仰いでいるように見えた。「お嫁さん。僕のことを隠していたからって彼らを悪く思わないでやってください。悪いのは僕ですからね」。
私の足元で獣は寝息を立てていた。私は穴から出ようとしたが、湿った土に手がめりこむばかりでうまくいかなかった。すると私の市の下に獣が鼻面を突っ込み、そしてぐいと持ちあげた。身体全体が浮き上がり、私は転げるようにして穴から出た。私は傍らの穴にいる義祖父に手を伸ばして「帰りましょう」と言った。義祖父は天を仰いでいた視線をこちらに向けた。初めて義祖父と目が合った気がした。義祖父はフウンと唸りながら私の手を握った。義兄は「僕ぁもう少しここにいるよ。だっていい月だよ。そら」と言った。
私は母屋の玄関を開け「すいません」と言った。姑はすぐに出てきた。舅も出てきた。舅を見るのは久しぶりだった。二人は私たちを見て目を丸くした。「あの、お義祖父さんが今、外に出てどこかに行こうとしてらして、気づいたので追いかけて、戻ってきたんです」「寒かったんじゃないの。どこに、お祖父ちゃん・・・」義祖父は黙って、眠たそうな顔をしていた。姑は「ありがとう、私全然気づかなかった・・・」と呟いた。私は「私も、気づいたの、たまたまです」と答えた。そして義祖父は熱を出して寝込み、肺炎になって入院しすぐに亡くなった。
芥川賞選考委員の島田雅彦は、芥川賞に決まった小山田浩子の「穴」について「技術的に高評価。日常の描写から始まるが、リズムがあり、ひきこまれる」と述べた、という。
本の帯には、以下のようにあります。
仕事を辞め、夫の田舎に移り住んだ夏。見たことのない黒い獣の後を追ううちに、私は得体の知れない穴に落ちる。夫の家族や隣人たちも、何かがおかしい。平凡な日常の中にときおり顔を覗かせる異界。『工場』で新潮新人賞・織田作之助賞をダブル受賞した著者による待望の第二作品集。芥川賞を受賞した表題作ほか二篇を収録。
小山田浩子:略歴
1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞受賞。2013年、初の著書『工場』が第26回三島由紀夫賞候補となる。同書で第30回織田作之助賞受賞。「穴」で第150回芥川龍之介賞受賞。
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