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八王子夢美術館で「前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち」を観た!

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八王子夢美術館で「前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち」を観てきました。観に行ったのは1月24日、是非とも観ておきたいと思っていた展覧会、会期末が迫っていたのでちょっと無理して八王子まで行ってきたのですが、2月2日までの展覧会、観て安心してしまったのか、ブログに書くことをすっかり忘れていました。


今年、八王子市夢美術館は開館10周年、小島善太郎は生誕120年を迎えたという。小島善太郎は半生を八王子で、最晩年を日野に過ごした、多摩を代表する洋画家です。その小島善太郎と滞欧時代に親交を結んだ画友、前田寛治を中心に、昭和初期の画壇に新風を吹き込んだ「1930年協会」の創立メンバーの作品が紹介されていました。展覧会の見どころが、以下のように3点あげられていました。


展覧会の見どころ その1
前田寛治の作品がまとまって紹介されるのは、東京では1988年の渋谷区立松濤美術館以来の25年ぶり、関東圏でも1999年の茨城県近代美術館以来14年ぶりとなります。八王子では初紹介。

展覧会の見どころ その2
鳥取県立博物館に所蔵される小島善太郎の「テレサの像(青い帽子)」が出品されます。この作品は小島がパリ時代に描いた作品ですが、そのモデルと恋仲にあったことを小島が自著で記しており、生誕100年に八王子そごうで展示されて以来、八王子へは20年ぶりに戻ってきます。当館初展示。

展覧会の見どころ その3
小島の初期代表作「ナポリの老婆」が青梅市立美術館より出品されます。このモデルは前述の「テレサ」の母であり、これも20年ぶりに母娘の像が並びます。


展覧会の構成は以下の通りです。


第1章 前田寛治、小島善太郎 それぞれのパリ

第2章 パリから東京へ 前田寛治と1930年協会

第3章 1930年以降の小島善太郎 人と芸術


第1章 前田寛治、小島善太郎 それぞれのパリ

1922年11月14日、一ヶ月半の船旅を経て小島善太郎が憧れのパリの地に立った。翌年1月9日、追いかけるように前田寛治もパリに到着する。小島が29歳、前田は26歳であった。留学前の二人は面識こそあれ徳に交流を持たなかったが、パリでは親しく交際する。留学時代の制作態度は両者とも極めて勤勉で、前田は規則正しい生活を送り、風景も描いたが優れた裸婦、婦人像を多くものにした。セザンヌ、マネ、クールベといったフランスの先達に多くを学び、特にクールベのレアリスムに傾倒し、一時期、マルクス主義の影響もあって、目に見える現在を描くという姿勢から労働者や工場を描いている。一方、小島はパリ留学中でなければ出来ない学習として、ルーブル美術館に通い、古典の模写に取り組んだ。レンブラント模写は不調に終わったが、ティントレットの大作「スザンナと長老たち」に挑み、2年を費やして完成させている。途中、関東大震災の影響で前田への日本からの送金が途切れたり、小島にあってはモデルとの苦しい恋愛も経験した。波乱はあったが、留学は実りある成果をあげて、1925年3月に小島が、次いで7月に前田が帰国の途についた。パリは多くのものを二人に与えた。

前田寛治




小島善太郎


第2章 パリから東京へ 前田寛治と1930年協会
1926年5月、東京、京橋で第1回1930年協会洋画展覧会が開催された。出品は木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治の5名、いずれもパリ留学を終えて間もない若き画家たちである。歳年長が33歳の小島善太郎、最年少は佐伯祐三で28歳を迎えたばかりだった。会の名称はフランスのコロー、ミレーらの1830年派にちなみ、また、来るべき1930年への意気込みを込めて命名された。1929年、第4回展は東京、大阪で開催、その勢いは絶頂を迎える。しかし、6月に前田が発病、10月に大作「海」で帝国美術院賞を得るも、病床にありながらの出品であり、暮れには創立会員の里見を含め会員3名が二科展に推挙され脱退する。これには協会の勢力拡大を恐れた二科側の切り崩しという見方もあった。前年に佐伯が二度目の渡仏中に客死しており、協会の先行きに陰りが見え始めてもいた。1930年4月、前田寛治死去、34歳の若さであった。以降、1930年協会の活動はなく、奇しくも、名称とした1930年に協会は事実上消滅した。


佐伯祐三


木下孝則

里見勝蔵

小島善太郎

前田寛治


第3章 1930年以降の小島善太郎 人と芸術
「独立美術協会」は、1930年協会の多くの会員を含め発足した。命名には様々な意が込められ、既存の巨大団体への決別を示すのに恰好の名称であった。小島善太郎はこの会の結成にあたっても中心的な役割を果たした。独立美術協会は1931年1月に第1回展を華々しく開催し、大成功であった。以降、現在に至るまで画壇に大きな位置を占める団体に成長する。翌年、小島善太郎は南多摩郡加住村に転居してアトリエを構えた。現在の八王子市舟木町である。当時の都会の風潮であった享楽的で退廃的な生活を嫌い、武蔵野の自然を求め、画家としての世俗的な評価や地位よりも、素朴で純情な心の在りどころを選んだのである。小島は、知略や軽薄さがはびこる都会での生活は耐え難く、智慧と深みのある生活を田舎に求めた。当時の新聞紙上に次のような展覧会評を寄せている。「単なる興味やデカダンはいきづまりが待っているように思う。人の心を打つものは素朴な純情であり、正直であり、智慧と深さである」。





前田寛治:略歴
1896年 鳥取県に生まれる
1916年 葵橋洋画研究所で学ぶ
      東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)入学
1921年 二科展、帝展に入選
1923年 渡欧(前年末に船出)
1925年 帰国
1926年 1930年協会結成
1927年 帝展特選
1929年 発病
      帝国美術院賞受賞
1930年 4月16日 死去


小島善太郎:略歴
1892年 東京都に生まれる
1911年 太平洋画研究所、
      葵橋洋画研究所等で学ぶ
1918年 二科展入選
1922年 渡欧
1925年 帰国
1926年 1930年協会結成
1927年 二科賞受賞
1930年 独立美術協会創立
1932年 八王子市に転居
1971年 日野市に転居
1984年 8月14日 死去

八王子市夢美術館開館10周年 小島善太郎生誕120年
前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち

第一次世界大戦後、芸術の都パリはエコール・ド・パリと呼ばれる文化が花咲き、世界中から芸術家や若者が集まります。日本からも多くの留学生が海を渡りました。小島善太郎、前田寛治も志を抱いて同時期にパリで学び、彼らが仲間たちと帰国後の1926年に結成したグループが「1930年協会」です。創立メンバーは木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三、里見勝蔵、前田寛治の5人でした。既存の美術団体の枠にはまらない、この新しいグループの活動は展覧会にとどまらず、講演会や執筆、研究所での後進の指導を積極的に行い、多くの若者に影響を与えました。しかし、1928年に佐伯祐三が2度目の渡仏中に客死、その翌年には里見勝蔵が脱会、1930年には前田寛治も34歳の若さで亡くなると、創立メンバーの内3人を失った協会は求心力を失い、同年に立ち上がった「独立美術協会」へと発展解消することになっていきます。結成からわずか5年、奇しくもグループの名称とした1930年が活動の最後となりました。本展覧会は前田寛治の故郷にある鳥取県立博物館の全面的な協力のもと、夭折の画家、前田寛治の画業を紹介するとともに、小島善太郎美術館を併設する青梅市立美術館と日野市立小島善太郎記念館「百草画荘」の協力を得て、多摩における小島善太郎の業績を伝えます。


「八王子夢美術館」ホームページ

yume1 前田寛治と小島善太郎 1930年協会の作家たち

編集:川俣高人(八王子市夢美術館)

    深田万里子(八王子市夢美術館)
編集協力:林野雅人(鳥取県立博物館)

発行:公益財団法人八王子市学園都市文化ふれあい財団
©2013





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