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ブリヂストン美術館で「描かれたチャイナドレス―藤島武二から梅原龍三郎まで」を観た!


ブリヂストン美術館で「描かれたチャイナドレス―藤島武二から梅原龍三郎まで」を観てきました。観に行ったのは5月8日でした。大正から昭和初期に、洋画家たちが中国服を描いた作品の展覧会です。会場には実物の中国服も展示されています。20世紀初めに清朝が崩壊すると、自由なデザインの「チャイナドレス」が登場します。華麗な中国文化の象徴としてチャイナドレスは、ヨーロッパで油絵を学んだ日本人洋画家たちを魅了します。


青いチャイナドレスが印象的な安井曾太郎の「金蓉」(後期展示)、モデルは小田切峰子という日本人女性、題名の「金蓉」は彼女の愛称だという。安井は1907年に渡仏し、アカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに師事、セザンヌやピサロの影響も受けたが、14年に帰国して以後、独自の写実を確立しました。


日本の洋画で始めて描かれたという中国服の女性は、1915年、藤島武二の「匂い」だったという。この絵をきっかけに、洋画家たちの間に中国趣味が広がりました。今回の展覧会には、藤島の作品が6点、出ています。藤島武二のルネサンスの肖像画を思わせる横顔像3点、「東洋振り」「女の横顔」「鉸剪眉」が、今回の展覧会の目玉でしょう。それぞれの作品に掲げてあった「解説」を、以下に載せておきます。


「東洋振り」:

藤島武二による、最初の中国服女性の横顔像です。藤島はヨーロッパ留学で見たイタリア・ルネサンスの横顔の肖像画を忘れませんでした。帰国後14年を経て、その構図を思い起こし、日本人モデルに中国服を着せて横顔を描きます。藤島は東洋と西洋に相通じるものがあると考えていました。


「女の横顔」:

モデルは竹久夢二から「お葉」と名付けられ愛された佐々木カ子ヨ(かねよ)という女性だと考えられています。藤島武二は「日本人には美しい横顔が少ない」と嘆いています。そんな藤島を満足させる数少ないモデルの一人でした。お葉を描いた代表作に「芳蕙(ほうけい)」1926年・個人蔵が知られています。


「鉸剪眉」:

藤島が1924年から3年間、立て続けに描いた中国服女性の横顔像の最後を飾るのが「鉸剪眉(こうせんび)」のシリーズです。「鉸剪眉」とは藤島が見た中国人形につけられていた言葉だそうで、「何のことか知らない」と藤島は語っています。おそらく漢字の並びや響きが気に入ったのでしょう。髪飾りも面白いものです。


児島虎次郎は、中国を4回も訪れました。「西湖の画舫」は、屋形船で宴を催す人々を描いたものです。今回の展覧会には児島の作品が4点、出されています。藤島に次ぐ多さです。藤島や児島に限らず、ヨーロッパで油絵を学び、日本へ帰って、日本の文化が抱く中国文化へのあこがれが、中国という題材にめぐりあったということになります。


6月12日には運良く、「描かれたチャイナドレス」展ブロガーナイトに参加させていただくことになりました。いわゆる「ブロガー内覧会」で、①企画担当者によるギャラリートーク、②参加者のみの夜間特別鑑賞会、③「描かれたチャイナドレス」展のみ写真撮影可、等々の特典があります。ブロガーナイトに参加してから、「描かれたチャイナドレス」展について、また書くつもりでいます。








「描かれたチャイナドレス―藤島武二から梅原龍三郎まで」

中国は、古代から近世にいたるまで、つねに日本をリードしてきたアジアの先進国でした。その日本は、明治維新以降、ヨーロッパに目を向け始めます。しかしそれでもなお、日本人の心から中国への憧憬や愛着をぬぐい去ることはできませんでした。大正時代、日本で中国趣味がわきおこります。芥川龍之介や谷崎潤一郎らが中国をテーマにした小説を次々に発表します。同じように、美術でも中国ブームがあらわれました。油彩画の世界では、藤島武二が中国服を着た女性像を描き始めます。ツーリズムの発達によって渡航しやすくなったことから、児島虎次郎や三岸好太郎、藤田嗣治、梅原龍三郎らは、中国を実際に訪れて題材を見つけました。一方、興味深いことに、藤島や岸田劉生、安井曾太郎らは、日本にいて、日本女性に中国服を着せて描きます。そこには、ヨーロッパから学んだ油彩技法を用いて、日本人が描くべき題材を求め、東西文化の融合をめざした到達点の一つを見ることができます。このテーマ展示は、1910年代から40年代にかけて日本人洋画家が描いた中国服の女性像約30点で構成されます。成熟していく日本洋画の展開をお楽しみください。


「ブリヂストン美術館」ホームページ


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国立新美術館で「第70回 現展」を観た!


画家の知人から招待状をいただいたので、国立新美術館で「第70回記念 現展」を観てきました。


現代美術家協会「現展」とは

権力におもねることなく、
平和と自由を愛し、
時代と共に歩みながら、
互いに個性を尊重し合い、
常に研鑽を怠らず、
新しい美術の創造をとおして、
真の人間精神を探求する、
現展は、
そういう作家たちの集団です。


会場の構成は、以下の通りです。


「平面(絵画・版画・デザイン)」

「立体」

「写真」

「工芸」


今回、僕の目についた作品の一部を、下に載せておきます。選んだ基準は、あくまでも僕の好みの範囲ですので、他意はありません。結局のところ、あまりに抽象度の高い作品、選ばれていませんでした。



絵画部門







彫刻部門





工芸部門


現展[現代美術家協会]公式ウェブサイト


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田園都市線二子玉川駅

東京都美術館で「バルテュス展」を観た!



扇情的なポーズで人々を魅了するのは、バルテュスの代表作のひとつ「夢見るテレーズ」(1938年)です。目を閉じて両腕を頭上で組み、膝を立てて下着を無防備にさらす少女。少女が無垢から目覚めつつある様を巧みに描きだしています。計算し尽くされた構図とともに、陰影とハイライトによって完璧に表現された少女の膝が注目されます。この少女を描いたポスターやチラシが、目に焼き付いて離れません。生涯にわたって少女を描いたバルテュスの真骨頂ともいえる作品です。


ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめた画家バルテュス(本名バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ、1908-2001)。生前は1962年の初来日以降7度も来日したという、大の日本贔屓。今回の日本での展覧会は約20年ぶり。妻の節子夫人の肝いりで、没後初の大回顧展が実現。世界中から集う40点以上の油彩画に加えて、素描や愛用品など100点以上を、東京都美術館で観ることができます。


バルテュスはパリ生まれですが、両親はともにドイツ人。二度の世界大戦により、フランスやドイツ、スイスの各地を転々とするコスモポリタンでした。絵本「ミツ」(1921年刊行)は、バルテュス11歳の時に制作された作品。「ミツ」と名付けられた子猫がバルテュス少年と出会い、クリスマスの翌日に姿を消してしまうまでの物語で、あたかも木版画のような40枚の素描で表したものです。当時バルテュスの母の恋人であり、父親代わりでもあった詩人リルケに絶賛され、彼の序文を付して刊行されたものです。


「猫たちの王」(1935年)は、言うまでもなくバルテュスの自画像です。27歳のときに描かれたこの自画像は、バルテュスの誇り高いダンディな面影を伝えています。バルテュスは、生涯謎めいた動物である猫を愛し、多くの作品の中に猫を登場させています。この作品を、自ら「猫たちの王」と名付けています。「地中海の猫」(1949年)は、常連だったパリのシーフードレストランのために描かれました。ナイフとフォークを握りしめている猫はバルテュス自身でもあります。海から出た虹が魚に変身し、そのまま皿へと舞い降りてきます。この魚は伊勢海老と少女を経由して虹に戻ります。


「おやつの時間」(1940年)は、ドイツ軍に占領されたパリからフランス南東部に逃れた頃描かれたものです。もっとも色彩豊かな作品のひとつです。パンを突き通したナイフや少女の厳しい表情は、大戦による破局を暗示しているという。バルテュスは、1953年にブルゴーニュ地方シャシーの城館に移り住み、多くの風景画を描きます。「樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)」(1960年)、画面上部の明るい部分と中庭の暗い部分は、樹の枝の斜線と中庭に差し込む光によって結びつけられています。画面左下の人物はバルテュス自身でしょうか。


1962年に初来日してから、バルテュスは日本的な作品を多く制作するようになります。「トランプ遊びをする人々」(1966年)は、歌舞伎から想を得た作品で、人物はまるで“見え”をしているかのようです。絵肌は初期ルネサンスのフレスコ画のようで、ヨーロッパ絵画の伝統を引き継いでいます。「朱色の机と日本の女」(1967-76年)のモデルは、1967年に結婚した節子夫人です。彼女の中に日本の美を見出したバルテュスは、何度も描きました。逆遠近法など、浮世絵の影響が強く見られるという。この作品が完成した翌年、バルテュスはスイスに転居し、さらに四半世紀を画業に捧げます。


僕が最も好きな作品は、シャシーの城館でともに暮らしていたというモデルを描いた「白い部屋着の少女」(1955年)です。また、興味深く思ったのは、画家のバルテュスが、フランス文化大臣アンドレ/マルローの要請で、ローマのメディチ家に住んで執務をこなしたということです。また今回の展覧会で、グラン・シャレに残るバルテュスのアトリエが復元展示されていて、これも興味深いことのひとつです。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 初期

第2章 バルテュスの神秘

第3章 シャシー――田舎の日々

第4章 ローマとロシニエール

素描  D4-D17 エミリー・ブロンテ「嵐が丘」のための14枚の挿絵



第1章 初期



第2章 バルテュスの神秘







第3章 シャシー――田舎の日々



第4章 ローマとロシニエール




素描



「バルテュス展」

ピカソをして「20世紀最後の巨匠」と言わしめた画家バルテュス(本名バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ、1908-2001)。 時が止まったように静謐な風景画や、バルテュス曰く「この上なく完璧な美の象徴」である少女のいる室内画など、どこか神秘的で緊張感に満ちたバルテュスの絵画は、多くの人々に愛され続けています。
本展は、バルテュスの初期から晩年までの作品を通して、画家の創造の軌跡をたどる大回顧展です。 ポンピドゥー・センターやメトロポリタン美術館のコレクション、また個人蔵の作品など、世界各国から集めた40点以上の油彩画に加えて、素描や愛用品など、あわせて約100点を紹介するとともに、晩年を過ごしたスイスの「グラン・シャレ」と呼ばれる住居に残るアトリエを初めて展覧会場で再現し、孤高の画家バルテュスの芸術が生み出された背景を探ります。


「東京都美術館」ホームページ


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スティーヴン・フリアーズ監督の「あなたを抱きしめる日まで」を観た!


スティーヴン・フリアーズ監督の「あなたを抱きしめる日まで」を、フランス旅行へ行く往路、ANA機内で観ました。


ジュディ・デンチの出た作品、僕はあまり観ていないんですね。自分でももっと観ているかと思い、少ないので驚きました。調べれば出てくるかも知れませんが、映画館で観たのは「あるスキャンダルの覚え書き」のみ、ブログに書いていたのはこのの一作のみでした。その後ジュディ・デンチが出ているというので「アイリス」を再び観て、調べてみると「ショコラ」「シッピング・ニュース」「ラヴェンダーの咲く庭で」「NINE」などを観ていたことが分かりました。


ジュディ・デンチ、言うまでもなくイギリスを代表する名女優ですね。決して美人ではありません。いわゆる個性的な顔つきの、性格俳優です。「あなたを抱きしめる日まで」の、批評家の意見をまとめると「魅力あふれる実話に基づいた上に、ジュディ・デンチとスティーヴ・クーガンという実力派俳優の名演に支えられた作品である。目利きの観客にも深い感動を与えうるドラマだ。」とあります(ウィキペデイアによる)。


幼くして母を失った少女が、行きずりの若者と一夜を過ごし、妊娠してしまいます。そのことを恥じた父は、世間の目から隠すように彼女を修道院に預けます。少女はそこで男の子を産み、洗濯女として働かされます。子供と会えるのは一日1時間だけです。しかし、ある日突然に子供を養子に出されてしまいます。


この物語、まったくもって「マグダレンの祈り」じゃないですか。いや、物語じゃなく、「マグダレン」は、つい最近まであった実話なのです。「あなたを抱きしめる日まで」も、同じく実話なのです。フィロミナ・りーという人物の・・・。

ピーター・ミュラン監督の「マグダレンの祈り」を(再び)観た!


それから50年。少女は老女となり、過去の秘密を娘に告白します。私にはもう一人子供がいたと。自身も子供のいる年齢になっている娘は、元ジャーナリストのマーチンに、息子を探す手助けをしてくれないかと頼み込みます。最初はあまり気乗りしなかったマーチンが、老女フィロミナとともにアイルランドの修道院を手始めに息子を捜し出そうとしているうちに、しだいにのめり込んでいきます。多くの子どもたちが、修道院から売られるように外国に養子に出されていたことを知ります。


フィロミナとマーチンは、息子を捜して、海を渡りアメリカにまで足を延ばします。この二人、フィロミナとマーチンが対照的なので面白い。純真無垢なまま歳を重ねた信心深いフィロミナと、息子探しを手伝ってキャリアを挽回しようとする海千山千の元エリート記者。深刻ななかに、ときおり笑いを交えて、観るものを感動させます。ラスト、フィロミナは声を荒げるマーチンに言います。「赦しには、大きな苦しみが伴うものなのですよ」と。


以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。


チェック:10代で未婚の母となり幼い息子と強制的に引き離された女性の奇跡の実話を、『クィーン』などのスティーヴン・フリアーズ監督が名女優ジュディ・デンチを主演に迎えて映画化。ジャーナリストのマーティン・シックススミスによる「The Lost Child of Philomena Lee」を基に、50年前に生き別れた息子との再会を願う母親フィロミナの姿を描く。彼女の息子捜しを手伝うマーティン役には、本作のプロデューサーと共同脚本も務める『マリー・アントワネット』などのスティーヴ・クーガンがふんする。

ストーリー:1952年アイルランド、未婚の母フィロミナは強引に修道院に入れられた上に、息子の行方を追わないことを誓約させられてしまう。その後、息子をアメリカに養子に出されてしまった。それから50年、イギリスで娘と暮らしながら常に手離した息子のことを案じ、ひそかにその消息を捜していたフィロミナ(ジュディ・デンチ)は、娘の知り合いのジャーナリスト、マーティン(スティーヴ・クーガン)と共にアメリカに旅出つが……。






パリ往復、ANA機内で観た映画!


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角田光代の「私のなかの彼女」を読んだ!


今年の2月頃だったと思いますが、朝日新聞読書欄に、角田光代の最新作「私の中の彼女」が取り上げられて、作家の三浦しをんの書評が載っていました。同じ頃、新聞下段の本の広告で、角田光代の「紙の月」が載っていました。なぜかこの2冊を、後先も考えずアマゾンで購入してしまいました。


「紙の月」(角川春樹事務所:2012年3月8日第1刷発行、2013年12月8日第7刷発行)の広告には、第25回柴田錬三郎賞受賞作、「映画化決定!主演:宮沢りえ、監督吉田大八」(2014年11月公開予定)とありました。あとで知ったのですが「紙の月」は、原田知世の主演でNHKでテレビドラマ化され、2014年1月7日から全5回、放映されたようです。「紙の月」は購入しただけで、まだ読んでいませんが・・・。


角田光代の本は2005年、132回直木賞受賞作の「対岸の彼女」を読みましたが、これ一冊だけしか角田の本や読んでいません。ブログに書いたものを読み直してみると、なぜこんなものが直木賞を受賞したのかと批判的で、疑問を呈していました。また角田の原作で映画化された「八日目の蝉」、第35回日本アカデミー賞の最優秀作品賞を始め10冠を制しました。「八日目の蝉」は、TUTAYAで借りたDVDで2度ほど見ました。小説としての作品は読んでいないので何とも言えませんが、これは配役もよかったしよくできた映画だと思いました。


角田光代の「私のなかの彼女」(新潮社:2013年11月30日発行)を読みました。角田は池上冬樹との対談(09年2月)で、デビューするまでの葛藤を、以下のように語っています。


デビュー前に私は、(早稲田大学の)文芸学科という創作科で、ゼミで小説を習っていたんです。そこでとにかく小説を書いて先生に見てもらっていたんですが、20歳くらいで一度自分が望まないジャンル、ジュニア小説の分野でデビューしたんですね。 いまふりかえってみても、自分がやりたいと思っていないジャンルで働かなければいけないのは、ひとつの苦悩でした。そこから抜け出すために3年間、文学賞に応募し続けるのですが、最終までいっても落ちてしまうんですね。最終までいって落ちるということは、押しがひとつないんだと思って、その押しはなんなのかとすごく考えていましたね。


その押しはなんだったんですか? という池上の質問に、角田は以下のように答えています。わかりませんね。でも、自分が文学賞の選考委員をするようになって思ったんですが、選ぶ基準って本当に簡単なんですよね。誰も書いてないものを書けばいいだけなんです。それがとても難しいんですが、そう考えると私が新人賞を受賞できたのは、誰も書いていなかったものが書けていたのかな、と思います。 そして続けます。私は嫌なものを書くのが好きなんですが、嫌なものを書いて喜んでいる作家って、あまりいないと思うんです。強いていうなら、それが私の個性かなと思っています。


これを読んで「私のなかの彼女」は、もうほとんど作家としての角田光代自身を書いている作品だということがわかりました。1980年代後半から20世紀初頭の20年におよぶ東京を舞台にした物語です。栃木県から上京した中流家庭の一人娘"和歌"の、大学入学直後からなんとか作家として身を立てるまでの"自伝的な(ような)"作品です。大学で年上の同級生、仙太郎と知り合い、二人は交際を始めます。仙太郎は、イラストレーターとして在学中からマスコミの寵児になります。垢抜けしない和歌には仙太郎は自慢の恋人であり、なにかと新しい世界を指し示してくれる大事な先導者でもあります。


仙太郎との結婚を夢見ていた和歌は、結婚をやんわりとかわされ、仙太郎のすすめで就職しますが、満たされない思いを抱えていました。正月に帰省した和歌は、実家の古い土蔵で母方の祖母・山口タエの写真を見つけ、また祖母が書いた小説を発見します。荒削りだが艶めかしい小説ですが、この小説が和歌の心に潜む書きたいという気持ちに火をつけました。小説を書き、新人賞を受賞し、会社を辞め、自分を満たしてくれる作家という仕事に邁進します。


あっという間に部屋は荒れ、洗濯物は脱衣所で山になり、取り込んだ洗濯物はテレビの前で山を作り、部屋の隅々に埃のボールと抜け毛があり、和歌が仕事部屋に使っている部屋はプリントした紙とファックス用紙と資料用の本とノートでほとんど畳が見えなくなった。トイレは黄ばみ、風呂のタイルの目路は黒ずみ、台所ではショウジョウバエが飛んでいた。仙太郎が料理を作るとき以外は、和歌は弁当やインスタント食品を食べた。食べないこともあった。・・・こんな状態ではきっといつか仙太郎に愛想を尽かされるだろうと思いながら仕事部屋に入ると、その心配すら忘れてしまうのだった。


「下地がなくても小説はかんたんに書けるものなんだ」「支えになるものがないといつか書けなくなる」、仙太郎には素養もないのによく小説なんか書けるものだと呆れられていたのです。そして予期せぬ妊娠の発覚、病院では胎児の心音が聞こえないと言われます。仙太郎には「あんな汚い生活をしているから」と言われます。母親は和歌を作家として認めないばかりか、「あんたが子どもを殺したんでしょう」とまで言われます。


しかし和歌の仕事の依頼は絶えずに続きます。女性誌などでコラムを書く「隙間の仕事」が増えるだけですが。ようやく仙太郎と対等の関係になってきました。一方、バブルが弾けて、仙太郎の仕事は落ち目で、時代から取り残されていきます。仙太郎から突然「来年、作品集が出たら、その印税でしばらく旅行しようと思うんだ」と言われます。「もしかして、別れようって言ってる?」と和歌は仙太郎を見ます。18から13年間、ずっと一緒にいた人と離れることは、和歌は怖かった。


和歌への依頼は引きも切らずにあり、出す本は二刷り、三刷りがかかった。歪んだ恋愛、奇妙な恋愛を描く作家という枠組みに、自分は入っているらしいと和歌は知っています。山口タエは、一冊の著作を出しただけで、作家にはならなかった。作家として名を成すことはなかった。けれど、自身の人生を生きた。だれかに強制されるのでもなく邪魔されるのでもなく、どこに向かうさだめ、その方向にしっかりと脚を踏み出しました。新たな「タエ物語」をそんなふうに思い描き、和歌はようやくタエをつかまえた気がしました。


20年前、学生と先生だった矢崎と、和歌はエジプトで会います。「フィールドワーク・・・前にやりたいと言っていたの、どうなった?」と聞かれます。「まだなんにも。・・・でもこういうふうに旅をして、いろんなものが見られたらいいなと思います」と答えます。いろんなものというのはつまり、人の暮らしだ、人の姿だと、今回知ったことを和歌は言おうとし、自分の抱える矛盾に気付かされる。人と関わることが恐ろしいのに、他者の姿を追いかけたい。人の近くにありたいのだ。その矛盾について和歌は矢崎に話したいと思います。


三浦しをんは、次のように言う。

さびしさの根源を白日のもとにさらし、しかしそれでも、誰もが「物語」をつむぎつづけるほかないのだと暗示する本作は、通じあえる一瞬の到来を願って、「物語」の檻のなかでもがき生きる私たちのために、この小説を読むあなたのために紡がれた、哀しいほどうつくしい物語なのだ。


出版社からの内容紹介は、以下のようにあります。

いつも前を行く彼と、やっと対等になれるはずだったのに──。待望の最新長篇小説。
「もしかして、別れようって言ってる?」ごくふつうに恋愛をしていたはずなのに、和歌と仙太郎の関係はどこかでねじ曲がった。全力を注げる仕事を見つけ、ようやく彼に近づけたと思ったのに。母の呪詛。恋人の抑圧。仕事の壁。祖母が求めた書くということ。すべてに抗いもがきながら、自分の道を踏み出す彼女と私の物語。


角田光代(カクタ・ミツヨ):略歴
1967年神奈川県生れ。早稲田大学第一文学部卒。1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。1996年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、1997年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞、『キッドナップ・ツアー』で1999年に産経児童出版文化賞フジテレビ賞、2000年に路傍の石文学賞、2003年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、2005年『対岸の彼女』で直木賞、2006年「ロック母」で川端康成文学賞、2007年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、2011年『ツリーハウス』で伊藤整文学賞、2012年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞を受賞。そのほかの著書に『くまちゃん』『私のなかの彼女』等多数。


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パナソニック汐留ミュージアムで「フランス印象派の陶磁器1866-1886」を観た!



パナソニック汐留ミュージアムで「フランス印象派の陶磁器1866-1886 ジャポニズムの成熟」を観てきました。観に行ったのは5月31日のことでした。


この展覧会は、アビランド家コレクションを中心に、印象派時代の陶磁器を日本で系統的に紹介する、という初めての機会です。印象派スタイルの絵付けをした陶磁器をはじめとして、19世紀後半のフランスが憧れた東洋や日本の美術が色濃く反映されたテーブルウエアや陶芸作品に加え、モネやルノワールといった印象派の絵画も展示いたします。


テーブルセッティング


展示作品の一部






「フランス印象派の陶磁器1866-1886 ジャポニズムの成熟」

日本にあこがれた19世紀パリの芸術を陶磁器など合計155点で展観

1874年4月、近代絵画史上最も画期的と見なされるグループ展、第1回印象派展がパリで開催されました。その出品作品のひとつであるモネの《印象、日の出》は、刻々と変化する水面の煌めきなどありのままの自然の情景が、大胆な筆致でキャンヴァスに表現されていました。当時のフランスのアカデミック美術は、忠実な模写を標榜していましたが、この絵画は精細さを欠いているとして多くの批判を浴び、このグループは皮肉をこめて「印象派」と名づけられました。同じ頃、陶芸の世界においても新しい技術やジャポニスムからの発想を生かすなど、近代性を取り入れた革新的な陶磁器が作られていました。
第1回印象派展の出品画家で銅版画家のフェリックス・ブラックモンも、日本美術の影響を受けた一人です。彼は、リモージュ磁器で知られるアビランド社の経営者で、日本美術の蒐集でも知られるシャルル・アビランドと出会い、同社の美術監督として迎え入れられると、ジャポニスムのモチーフなどを生かした伝統に捉われないデザインで才能を発揮しました。1880年代初頭には焼締陶器や銅紅釉を使用するなど新しい素材への挑戦を続け、アビランド社はフランスを代表する陶磁器メーカーとして発展しました。 そして、第1回印象派展から100年を経た1974年、「セラミック・インプレッショニスト(Céramique Impressionniste)」という展覧会がパリで開催されました。ここでは印象派絵画のような筆致で装飾された陶磁器と印象派絵画の関連が改めて注目を浴び、作品群は「印象派の陶磁器」と称され、その芸術性の高さが認知されることとなりました。
本展は、アビランド家コレクションを中心に、印象派時代の陶磁器を日本で系統的にご紹介する初めての機会です。印象派スタイルの絵付けをした陶磁器をはじめとして、19世紀後半のフランスが憧れた東洋や日本の美術が色濃く反映されたテーブルウエアや陶芸作品に加え、モネやルノワールといった印象派の絵画も展示いたします。


「パナソニック汐留ミュージアム」ホームページ


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パナソニック汐留ミュージアム×ジョルジュ・ルオー財団

「2014年度ルオー・ギャラリー特別展示」

・ルオーとキリスト

 2014年4月5日(土)-6月22日」(日)

・ルオーとユビュ

 2014年7月26日(土)-10月13日」(月)

・ルオーと風景

 2014年10月25日(土)-12月26日」(金)

・ルオーと顔
 2015年1月17日(土)-3月29日」(日)




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「建築家グンナール・アスプルンド―癒しのランドスケープ―」展
「建築家・清家清展」を体感する!






TOTOギャラリー間で「小さな風景からの学び」を観た!



TOTOギャラリー間で「小さな風景からの学び」を観てきました。


このブログ(とんとん・にっき)に乾久美子が出てくるのは以下の2件です。

TOTOギャラリー間で「第13回ヴェネツィア・ビ、エンナーレ国際建築展日本館帰国展」を観た!
乾久美子設計の「日比谷花壇」を観た!


青木淳の事務所にいたことや、ディオール銀座のファサードをやったことなどで、乾の名前はかなり以前から知ってはいました。しかし、乾と同年代の藝大の人を僕は知らないことで乾との接点がありませんでした。最近、「日比谷花壇」を設計したことや、伊東豊雄の呼びかけにより3人の建築家―乾久美子、平田晃久、藤本壮介が、共同作業によってひとつの建築をつくり、そのプロセスを展示したものがヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展で「金獅子賞」を受賞したことなど、聞いてはいました。


「私たちの日常には、人を包み込むような優しさを感じる空間がある」、そんなきっかけからこのプロジェクトは始まったという。「その場が生み出された根源的な何かを感じることのできる空間を採集する」。撮影者それぞれが“気になる”という理由でとられた風景は、半年以上の調査を経て18000枚にのぼったという。そこから、その形状や状態など、同じような質をもつと思われるもの同士を23のグループ、178のユニットに層別しました。その過程で導き出されたのが「サービス」という概念だったという。


乾久美子の、この展覧会を解説する「動画」が面白い。さすがは大坂人、安藤忠雄ばりの説得力のある話は一見の価値あり、です。また、「小さな風景からの学び」、図録ともいえず、解説書のような手引き書のようなもので、ほとんど写真です。アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」のようなもの?これが優れもの、開いたときに平になるとか、軽い紙質のものを使っているとか、いろいろと工夫が成されています。是非手に取って見てみてください。お薦めです。


乾久美子氏による展覧会コンセプト文
小さな風景からの学び
半年以上かけて、学生やスタッフと共に「小さな風景」を撮影することを繰り返してきました。気になる風景があればとにかく撮影し、毎週のように持ち寄り、分類をし続けたのです。「気になる」などというといかにも適当な感じがしますが、人は、そうした言葉にならないぐらいの感情の動きで空間の魅力を判断しているのではないかと考えてみたのです。 最終的に大量の写真が集まりました。「気になる」という撮影者の気持ちがよくわかる風景ばかりです。見るものを誘い込むような魅力にあふれ、あたかも擬人化したくなるような表情の豊かさがあります。しかし撮影されてきた対象物は大きくバラツキがあり、共通する「何か」はそう簡単には見えてきません。最終的に見つかったのは「サービス」という言葉でした。生態学で使われるこの言葉を写真の中の風景の評価に適用すれば、そこから何かが学べるのではないかと考えたのです。 展覧会では、大量の風景写真の展示を通して、風景がかもし出すさまざまなサービスの表情を楽しむような視点と、そこからの考察を提示します。自然からのサービス、人為的なサービス、偶然のサービス、ユーモアのあるサービスなど、私たちは空間の中でさまざまな次元でサービスを享受しつつ、その質を表情として読み取っているのではないかという仮説を通じて、「生きられた/計画された」といった区別を超えた空間や建築の価値のありようを考えていきます。
乾久美子


乾久美子:略歴

1969年大阪府生まれ。1992年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1996年イエール大学大学院建築学部修了。1996~2000年青木淳建築計画事務所勤務を経て、2000年乾久美子建築設計事務所を設立。2011年東京藝術大学美術学部建築科准教授就任。主な建築作品に、「Dior Ginza」(2004)、「アパートメントI」(2007)、「フラワーショップH」(2009)、「KYOAI COMMONS」(2011)など。現在は東北で小・中学校の計画や、宮崎県延岡市におけるまちづくりが進行中。




「小さな風景からの学び」:展示の一部

a-並べ方

b-スケール

c-そっとおいてみると

d-集まり方

e-散らばり方

f-内と外

g-境界



「小さな風景からの学び」

TOTOギャラリー・間では、建築家・乾久美子氏と乾氏が教鞭を執る東京藝術大学・乾研究室の学生によって行われた、都市のリサーチ研究成果を紹介する展覧会を開催いたします。乾氏は近年、陸前高田の「みんなの家」(2012年)の設計に参画した他、現在では宮崎県延岡駅周辺の整備プロジェクトや宮城県七ヶ浜町と岩手県釜石市における学校建築などが進行中です。こうした〈多くの人の集まる場所=公共〉のあり方を探る中で、設計者として日本の風景の多様性を再認識し、人が自然に引きつけられる場所のもつ魅力への関心が高まり、今回のリサーチが始まりました。「小さな風景からの学び」と題された本展では、乾氏のほか、研究室の学生や乾久美子建築設計事務所の所員が行ったリサーチの、日常のささやかな現時点での成果を紹介します。半年以上をかけて、延べ45都道府県、約200を超える市区町村を取材する中で出会った風景を撮り続けた結果、その総数は約18,000枚にものぼりました。それらの写真を類型学的に分類していく中で見出された視点を加えながら分析してきました。会場では、そうした類型化の過程で導き出されたキーワードである「サービス」という切り口で選ばれた約2,000枚あまりの写真を178ユニット(写真群)に層別して紹介します。こうして撮りためられた大量の写真が、これからの建築のあり方を考えるヒントを与えてくれるのではないでしょうか。


「TOTOギャラリー・間」ホームページ


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「小さな風景からの学び」

さまざまなサービスの表情
編著者=乾久美子+東京藝術大学 乾久美子研究室
発行年月=2014年4月

装丁・本文デザイン=飯田将平+深川優
TOTO出版








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五島美術館で「近代の日本画展」を観た!



五島美術館で「近代の日本画展」を観てきました。観に行ったのは、小雨降る6月7日のことでした。ちょうど1年前にも、今回と同様に「近代の日本画展」 が開催され、五島美術館へ観に行ってました。


「案内はがき」には、以下のようにありました。

館蔵の近代日本画コレクションから、「花鳥画」を中心に、橋本雅邦、横山大観、川合玉堂、小林古径、橋本関雪、安田靫彦、川端龍子、金島桂華など、明治から昭和にかけての近代日本を代表する画家の作品約40点を選び展観。


「五島コレクション」について

五島美術館の所蔵品管理分野「近代日本画」は、平成元年(1989)3月に物故された東急電鉄会長五島昇氏(1916-1989)の遺言により、同年五島家から寄贈を受けたものである。これは、東急電鉄の創始者で五島美術館を創立した五島慶太翁(1882-1959)と昇氏の親子二代にわたる収集で形成されたコレクションである。


以下、「近代の日本画」(図録)より、解説を付す。


橋本雅邦「游鶴図」。狩野派の伝統を受け継いだ的確な線描を用い、品格のある二羽の鶴の姿態を丁寧に表現する。雅邦の優れた写実力を示す作品。



竹内栖鳳「村居」。村居とは、村里に住むこと。独特の筆致を用い、淡彩で軽く描いた身近な静物(藁苞と柿)がそれを象徴する。

平福百穂「梅に小鳥」。渇筆と潤筆を使い分け、墨の柔らかで豊かな階調と淡い色彩が、春の暖かな印象を与える。百穂は、写実性の強い自然主義の画風を展開した画家。



冨田渓仙「楊柳白鷺図」。柳樹に留まる三羽の白鷺を描く。楊はカワヤナギ、柳はシダレヤナギのこと。

小林古径「茄子」。茄子の実や葉・茎は形態を単純化、厳しい筆線により葉脈を描き、全体に静かな画面を構成している。墨の濃淡の階調を使い分け、花にのみ用いた色彩が画面にアクセントを与える。



橋本関雪「藤に馬」。金地屏風の平面化した空間に、三頭の馬の親子の堂々とした存在感を描き出す。優れた写実力による、曲がりくねった枝や柔らかな藤の花の質感の表現も見事。




前田青邨「紅葉」。パターン化した紅葉の葉を画面全体に展開した装飾性の強い画面。中央の二羽の鳥が愛らしい。

川端龍子「冨貴盤」。実物大以上の大きな牡丹の花を、顔料たっぷりと使って大胆に描く。牡丹の異称は、富貴草。



土田麦僊「柘榴に叺々鳥」。叺々鳥(八哥鳥)は、アジア東部や中国南部に棲息する黒色の吉祥鳥。

金島桂華「晨光」。晨光とは、朝日の光のこと。鶴の輝く羽毛と、椿に残る雪の白色がそれを象徴する。桂華は、竹内栖鳳に師事、花鳥画を得意とした画家。



村上華岳「牡丹図」。震えるような筆致と、にじみを多用した華岳独特の画風を示す。

堂本印象「爽秋清韻」。栗の木に留まる小鳥(駒鳥)を描く。柔らかな色彩と静かな筆致が、清らかな秋の一情景を表現。



小杉放庵「啄木」。濃墨と朱を用いた啄木鳥(アカゲラ)に対し、朽ちた葉や小枝、茸を、陰影を省いた水墨淡彩と細かな筆致で描き、静かな画面を構築している。

山口蓬春「紅梅」。梅の枝に留まる小鳥(鷽)を描く。色彩の濃淡を生かし、簡略化したそれぞれの形態描写に優れた構成力がうかがえる。蓬春は、やまと絵の技法をもとに、日本画のモダニズムを追求した。



金島桂華「富有柿」。篭に無造作に入った富有柿を描く。四条派に学んだ写実力に、「院体画」の画風(精緻な写実による花鳥静物画が特徴)を加えた重厚感のある画面を示す。



「五島美術館」ホームページ


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五島美術館コレクション

「近代の日本画」

図録(小冊子)

平成14年(2002)4月1日発行
編纂:五島美術館学芸部

編集:渡川直樹

発行:財団法人五島美術館







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ブリヂストン美術館「描かれたチャイナドレス」展 ブロガーナイト!


ブリヂストン美術館で開催された「描かれたチャイナドレス」展 ブロガーナイト!に行ってきました。


開催概要

開催日:2014年6月12日(木)18:30~20:00

     企画担当者による展示解説18:40~19:20

参加費:500円(税込)


参加特典として、①企画担当者によるギャラリートーク、②参加者のみの夜間特別鑑賞会、③「描かれたチャイナドレス」展のみ写真撮影可、④ティールーム(ジョルジェット)にて“シノワズリティー”がウエルカムドリンクとしてサービス、等々がありました。


*「撮影不可作品」は以下の6点

1.藤田嗣治「病児と力士」1934年

2.梅原龍三郎「姑娘とチューリップ」1942年

3.梅原龍三郎「玉鈴と三鈴」1942年

4.矢田清四郎「支那服の少女」1927年

5.岡田謙三「満人の家族」1942年

6.朝井閑右衛門「蘇州風景」1941年


*展示替え

前期のみ展示

藤島武二「東洋振り」1924年、個人蔵

後期のみ展示

安井曾太郎「金蓉」1934年、東京国立美術館蔵

恩地孝四郎「白堊(蘇州所見)」1940年、千葉市美術館蔵


チャイニーズ・ドレス



ギャラリートーク

「描かれたチャイナドレス」、メディアには好評だった。日本人が描いた油絵28点、中国服を着た女性を描いたというピンポイントの企画だった。去年の夏頃から8ヶ月という短い準備期間でなんとか作品を集めた。安井曾太郎の「金蓉」を借りられるかどうかで、この展覧会の正否がかかっていた。今から60~80年前、日本人はチャイナドレスを着ていた。1920年代、1930年代、チャイナドレスは流行だった。そういう時代があった。半分が和服、半分が洋服、そのなかで中国服を着ている人がいた。今回の展覧会、中国を表すとこんなイメージとして、壁の色を赤く塗った。


藤島武二の「匂い」1915年、中国服の女性像を描いたの最初作品。中国の嗅ぎ煙草を前にして、モデルが右肘をついてテーブルに座っている。ピンクのつややかな中国服を着て、薄緑の背景が引き立てている。この絵を描く4年前まで藤島はパリにいた。藤島は、フランスよりイタリアの方が肌に合っていた。朝鮮半島は伊太利亜半島に似ている。気質もイタリア人に似ている。日本から見た「まなざし」、日本よりの高い文化を持っていた。日本から見た朝鮮に「あこがれ」ていた。藤島は1910年代から中国服を60着も買い集める。中国服コレクションは絵の題材にした。


イタリア・ルネサンスの肖像画は女性も男性も真横から描いた。藤島はルーブルで模写し、自分の出発点とした。「芳蕙」は行方不明だった。「女の横顔」は「芳蕙」のモデルが着ている中国服と同じものを着ている。モデルは竹久夢二と別れたあとの「お葉」と名付けられた佐々木子ヨ(かねよ)。藤島は「日本人には美しい横顔が少ない」と嘆いていた。そんな藤島を満足させる数少ないモデルだった。「鉸剪眉」は中国の人形、細い眉、言葉の響きがよかったから名付けた。「台湾の女」は、台湾の中央高地に住む先住民、ツォウ族のエキゾチックな女性を、正面から描いた。


児島虎次郎は大原孫三郎の援助で留学した。大原美術館には児島が描いた「京劇の役者の絵?」がある。残念ながら状態がよくないので借りられなかった。「西湖の画舫」、風光明媚な西湖、屋形船の内側を描いた。胡弓を弾く男性、歌う妓女を描いている。安井曾太郎の「金蓉」、宗得三郎の描いた「中国服を着た女」と同じモデル。小田切峯子、父親が外交官、上海総領事だった。金蓉は峯子の中国風のニックネーム。細川護立が発注して描かせたもの。安井は最初は写実的に描き、それを横に置いて修正しながら描いていった。背景は中国服の紺色とのバランスで灰色にした。裾の辺りに色があり、安井の代表作。


三岸好太郎の唯一の海外渡航が、1926年秋の上海旅行。「支那の少女」は滞在中の10月に描かれた。後の重要な題材であるサーカスと上海で出会っています。恩地孝四郎は、日本版画協会から選ばれて、中国中部へ出かけました。上海や南京、漢口などにおもむき、長江流域をめぐります。「白堊(蘇州所見)」は帰国後の翌年に制作されたもの。幾何学的に構成された白い空間に、青いチャイナドレスの後ろ姿が象徴的に浮かび上がっている。


描かれたチャイナドレス





第4室 印象派

第5室 印象派とポスト印象派


「描かれたチャイナドレス―藤島武二から梅原龍三郎まで」

中国は、古代から近世にいたるまで、つねに日本をリードしてきたアジアの先進国でした。その日本は、明治維新以降、ヨーロッパに目を向け始めます。しかしそれでもなお、日本人の心から中国への憧憬や愛着をぬぐい去ることはできませんでした。大正時代、日本で中国趣味がわきおこります。芥川龍之介や谷崎潤一郎らが中国をテーマにした小説を次々に発表します。同じように、美術でも中国ブームがあらわれました。油彩画の世界では、藤島武二が中国服を着た女性像を描き始めます。ツーリズムの発達によって渡航しやすくなったことから、児島虎次郎や三岸好太郎、藤田嗣治、梅原龍三郎らは、中国を実際に訪れて題材を見つけました。一方、興味深いことに、藤島や岸田劉生、安井曾太郎らは、日本にいて、日本女性に中国服を着せて描きます。そこには、ヨーロッパから学んだ油彩技法を用いて、日本人が描くべき題材を求め、東西文化の融合をめざした到達点の一つを見ることができます。このテーマ展示は、1910年代から40年代にかけて日本人洋画家が描いた中国服の女性像約30点で構成されます。成熟していく日本洋画の展開をお楽しみください。


「ブリヂストン美術館」ホームページ


注:会場内の画像は主催者の許可を得て撮影したものです。


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佐藤彰一の「禁欲のヨーロッパ 修道院の起源」を読んだ!



佐藤彰一の「禁欲のヨーロッパ 修道院の起源」(中公新書:2014年2月25日発行)を読みました。どうしてこの本を読むことになったのか、今となってはまったく分かりません。たぶん「中公新書・今月の新刊」を見たので、すぐに購入したのかと思います。第8章まではすぐに読んだのですが、第9、10章が読まれないままに数ヶ月が経ってしまい、やっと全部を読み終わったというわけです。第一部は古代の禁欲心性と史的系譜、第二部はポスト・ローマの修道制で、それぞれ5章ずつ書かれています。新書とは思えないほどの、内容のある重い本です。


「はじめに」で、佐藤は次のように言う。

ひとが己の欲望を抑える。食べること、他者の肉体への欲望、さらに所有、金銭、名誉などへの欲望を断ち切り、克服すること。それはキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教など世界宗教の大國見られる修道実践の根源的な目標である。もろもろの悪徳の源であるとされる「我欲」を克服することで、自己の霊的救済と完徳を成就しようと願ったのである。こうした願望をもつ者たちが、共同で生活する場が修道院や仏教の僧院であった。本書は、西洋の修道制と修道院の最初期の歴史を、その心性面での背景から説き起こし、おおよそ6世紀までを時代的な枠組みにして論じている。したがって、西洋世界に修道制が本格的に普及し、定着する以前が本書の考察の対象になる。


修道制が出現する前段階での古典古代社会における、禁欲を含めた節制と肉体統御の思想に考察を広げ、人々の心性に分け入って禁欲修道制を受容する素地を明らかにする作業は欠かせない。考察は素地の土台を構成するさまざまな要素、結婚や女性、子どもの問題、生殖の問題にも及ぶのはことの性格上当然と言えよう。


本書における議論は、エジプトの砂漠で開始された共住修道制が西方に伝えられ、西方での普及の一大センターとなったカンヌ沖合の小島に創建されたレランス修道院と、都市近郊に生まれた初期の修道院で締めくくることにする。西洋の修道制が本格的に開始するのは7世紀以降のことであり、本書が主題としているのは、西洋修道制の前史ということになる。


これだけ詳細に調べ上げていることに、もともとこの分野に基礎知識のまったくない者に、異論を唱える術は毛頭ない。


古代ギリシャの医学的知識として、「ヒッポクラテス医学論集成」は、紀元前6世紀から紀元前後の時代までの、様々な時代の作品を集めたもの。これによって古典期ギリシャの医学と身体観を知ることができるという。もう一つはガレノスの「医学論」がある。2世紀の末頃、彼自身が書き記したもので、掛け値なしに膨大なもの。それらをもとに、古代の禁欲生活や養生のありようを、佐藤は詳細に語っている。


話は飛ぶが、たとえば「禁欲とヒステリー」の項、禁欲的生活が人の生理に引き起こす種々の障害は、ピッポクラテスの時代からギリシャで知られており、結婚適齢期の娘や独身の女性の禁欲がもたらす障害を、ギリシャの女性自らが「ヒステリー」と名付けていた、という。「人によっては、性交を抑制すると精神の弛緩や移り気といった状態になる者がいる。また別の者はわけもなく不機嫌になったり、怒りっぽくなったりする。こうした症状も性交を再開するとただちに解消する」という記述があったりする。


後半は、エジプトの修道制が、後の時代への影響という点で重要な流れを形づくっているとして、東方に生まれた修道制から、西ローマ世界、後の西欧の中心をなすガリア地方の伝播から考察が始まり、レランス修道院とローヌ修道制について詳細な検討がなされる。


本のカバー裏には、以下のようにあります。

多くの宗教で、性欲・金銭欲などの自らの欲求を断ち切り、克服することが求められる。キリスト教も同様だが、それではヨーロッパにおける「禁欲の思想」はいつ生まれ、どのように変化していったのか。身体を鍛錬する古代ギリシアから、法に縛られたローマ時代を経て、キリスト教の広がりとともに修道制が生まれ、修道院が誕生するまで――。千年に及ぶヨーロッパ古代の思想史を「禁欲」という視点から照らし出す意欲作。


目次

はじめに

第一部 古代の禁欲心性と史的系譜

 第1章 古代ギリシャとローマの養生法

 第2章 女性と子供の身体をめぐる支配連関

 第3章 抑圧の社会的帰結

 第4章 キリスト教的禁欲への道程

 第5章 社会的禁欲における女性の役割

第二部 ポスト・ローマの修道制

 第6章 東方修道制の西漸

 第7章 聖域と治癒

 第8章 聖マルティヌスによる宗教心性の転換

 第9章 レランス修道院とローヌ修道制

 第10章 ポスト・ローマの司法権力と修道院

おわりに

あとがき

文献案内

事項索引

人名索引


佐藤彰一:略歴
1945年山形県生まれ、1968年中央大学法学部卒、1976年早稲田大学大学院博士課程満期退学。名古屋大学教授等を経て、現在、同大学名誉教授。日本学士院会員。『修道院と農民――会計文書から見た中世形成期ロワール地方』により日本学士院賞受賞。専攻・西洋中世史、博士(文学)。
著書
『世界の歴史(10)西ヨーロッパ世界の形成』(共著、中央公論社 1997年/中公文庫 2008年)
『カール大帝――ヨーロッパの父』(世界史リブレット 人、山川出版社、2013年)
『中世世界とは何か ヨーロッパの中世(1)』(岩波書店、2008年)
『歴史書を読む――『歴史十書』のテクスト科学』(山川出版社、2004年)
『中世初期フランス地域史の研究』(岩波書店 2004年)
『ポスト・ローマ期フランク史の研究』(岩波書店、2000年)
『修道院と農民――会計文書から見た中世形成期ロワール地方』(名古屋大学出版会、1997年)
『地域からの世界史(13)西ヨーロッパ(上)』(共著、朝日新聞社、1992年)
ほか

日仏会館で「ヴァロットン―冷たい炎の画家」を聞く!



主催:日仏会館・フランス事務所・日本研究センター

イベント名:ヴァロットン―冷たい炎の画家

   三菱一号館美術館ヴァロットン展関連講演会

   講師:マリナ・デュクレイ

    (フェリックス・ヴァロットン財団名誉学芸員)

   司会:三浦篤(東京大学)

    (同時通訳付)

日時:2014年6月15日(日) 14:00~16:00

会場:1階ホール


・司会三浦氏より概要説明、関係者紹介

・高橋館長挨拶

 「ヴァロットン展」昨日オープニングが行われた。珍しい展覧会。

 ヴァロットンはナビ派と共に活躍していたが、なぜか忘れられていった画家。

 この展覧会はヴァロットンの日本初の回顧展です。

 オルセー美術館およびフェリックス・ヴァロットン財団の監修による国際レベルの展覧会として、
 グラン・パレ(フランス・パリ)、ゴッホ美術館(オランダ・アムステルダム)を巡回。

 パリでは31万人が熱狂し、評価がガラッと変わった画家。

 マリナさんのカタログは、書籍のグランプリを取った。

 ローザンヌのヴァロットン財団で、展覧会に関わってきた人。


以下、マリナ・デュクレイ氏の講演会要旨

(同時通訳を通してなので、聞き取れなかったことも多々ありますが・・・。)


日本でヴァロットンについて話をするのは大変光栄です。

ヴァロットンについて、おおよそ次のように3つに分けて話します。

・名声の獲得

・ナビ派と共に

・新しい表現手段の探求


第一部:

ヴァロットンの1891年の木版画は、前衛・アヴァンギャルド側から認められる。

ジュール・ルフェーベルやハンス・ホルバインに認められる。

「20歳の自画像」1885年を描く。

「シルクハットの自画像?」1887年、弱冠22歳でアカデミズムと決別。

1890年、ボザール校で日本の版画展があった。

シャルル・モランがヴァロットンに版画を薦めた。

詩人ヴェルレーヌを描いた初期の木版画2枚が認められた。

新木版画家として称賛される。1892年、12点の木版画。

「薔薇十字会の展覧会」、白と黒の様式に魅了された。

アンデパンダン展「街頭でも?」白黒のみ。

ナビ派とも行動を共にする。

1894年頃から新聞、雑誌の仕事が多くなる。

「3人の浴女?」1894年、「仮面」10点など

フランス国内外で評価される。

挿絵画家として売れっ子になり、木版画が少なくなる。

白と黒を強調し、ジャポニズムの影響で総合芸術を目指す。

「群衆、パリの野獣たち?」1896年

ヴィヤールへの手紙

10枚の連作「アンチミテ?」はヴァロットンの傑作。

アメリカでも版画家、挿絵画家として知られるようになる。


第二部:

ナビ派の画家ヴァロットン

ヴィヤールへの手紙

「私は画家としても素質がある」

ヴァロットンの作品は、ルソーともデューラーとも共通する。

「肖像画」、印象派とは正反対。

スイス生まれ、パリで生きた二つの感性を持つ「外国人のナビ派」

「ゴデスカの肖像?」を何枚も描く。

「夏の宵の水浴」は奥行きもなく空もない。象徴的に解釈。

「La Vaise 1893」ワルツを踊る人々。浮世絵の人物と比較。

奥行きにない、アールヌーヴォー的な曲線。

色彩の象徴主義。美の規範を重視していない。

「女性1897」ポケットカメラを使う。ナビ派は写真を撮り始める。

写真に基づき何枚かの作品を描く。

「ボール」、別称「公園の片隅、ボール遊びをする子供」1899年

影が子供を追いかけている(チラシの絵)。

「都市の光景」写真のように一部分が欠けているように見える。

「洗濯女」「ブルジョアの女性」など、職業に注目したりもします。

意図的に装飾的に。「公園・夕暮れ」

「Le Bon Marohe 1898」三連画

レンブラントを意識


第三部:

刷新、ガブリエルとの結婚。

まだ版画家としてしか知られていなかった。

新しい表現手段の探求。

コダックカメラで海水浴客や家族を。

「5人の肖像画」1902-1903、本質的な特徴を捉えた。

「セーヌ川のほとりの景色」1901、斜めの構図。

1904年末、造形的な意味として大型の裸婦を描く。

写真のような絵画、無名のモデルの水浴、読書。

様式化された次元。見る者を2次元的に。

「モデルの休息」1897年

あらゆるジャンルで力を競えた。

「シュザンヌと好色な・・・」1922、高級娼婦を描く。男女の性。

「龍を対峙するベルセウス」1910、アンドロメダ、中年女性。

「かがんだヴィーナス」、批評家からは評価されなかった。

1909「沼」、あらゆる空と地平線を排除。

1917年、軍の芸術広報員として活動。

「ベルダン?」戦争という現象。

ヴァロットンは、色彩として新たな一歩を踏み出す。

「化粧台」、「イーゼルと・・・」1925

ヴァロットン自身を見ることになる。

「La Fenne qu chevalet」1925

版画家から画家へとして出発する。

ジャポニズムの影響。


質問:

ヴァロットンは絵や版画以外、劇作と小説を書いているが、評価は?

「殺人の人生」、「シプリアモリスの・・・」等々。

レジオン・ドヌール章を受賞している。ヴァロットンはマルチタレント。


質問:

ヴァロットンの版画について?

日本の浮世絵の展覧会は、色のついた多色刷り。

ヴァロットンは白黒。

ヴァロットンの特色は、一生を通じてどの派にも属さなかった。

「美術は、・・・唯一、表現の仕方が変わる」

報道用の版画などは、1903年に売るときに後から色をつけた。

ヴァロットンは柔らかい版木を使った。あまり細かいことはできなかった。

「新しい木版画家」と言われた。


質問:

ヴァロットンは彫刻を作っていたのか?

ヴァロットンはプラスチックで作った。元々は6点、鋳造した。

壊した彫刻は何点か分からない。


質問:なぜ「冷たい炎の画家」と言われたのか?

美術評論家が書いた。それは滑らかな絵だから。ゴッホは厚塗り。

ゴーガンは「1kgの青の絵の具を使う理由はない。500gでも私は描ける」と言った。


質問:

2005年のマリナの著作は、日本語または英語になってないのか?

今さら訳したりするのは大変な労力がいるので、翻訳は止めた。


質問:

フランスでも展覧会が人気があったが、どういうところがよかったのか?

生前からヴァロットンはとても人気作家だった。

「トルコ風呂」などは人気があった。

亡くなってから「反動家」と見なされた。

「彼はある種の先駆者だった」とある批評家は言う。

フランス人としてはハードだった。


質問:(三浦)

ヴァロットンは最初はアカデミー・ジュリアンで学ぶ。

ジュール・ルフェーベルに評価される。

アカデミックから写実的な画家になるが・・・。

私(マリナ)はそうは思わない。

展覧会を見れば分かると思う。本当に写真のように見える。

1902年、ナビの最後、総合主義。

ディテールが無くなって、簡素化している。

その後ルフェーベルとは不仲になる。やっぱりアカデミズムの人なんです。


質問:(三浦)

もう一つ、関連して。

最後のヌードなどはシュールレアリスムの先取り。

そうですね。シュールというときつすぎるが、シュール・ナチュラル。

モデルを呼んで、クロッキーを何枚も描く。

たくさんの中から一枚を選ぶ。

アトリエの中で背景を描き、モデルを入れ込む。


質問:(高橋)

ポップアートのジェネレーションを経て、新しい・・・。

ヴァロットンの愛好者が評価する目が生まれたと言っていた。

マンガなど、新しい表現が生まれてきた。

30年代の共通性、エドワード・ホッパーなど。

カタログの中で“コジュヴァ”が映画との類似を言っているが、

それは本当に明らか。30年、40年早かった。

ヴァロットン自身、映画をよく見ていた。コジュヴァさんの言ってる通り。

「水浴する女性」は、マンガの一コマのよう。

ヴァロットンは、顧客のために何かをつくるということはしませんでした。

多くのアーティストは、一度うけると量産するようになる。

ヴァロットンの大事なことは、フレーミング。


質問:(高橋)

都市生活者の孤独とか畏れを扱っているので、内容的な類似がある。


質問:

ヴァロットンと女性の問題は?

女性との距離感。奥さんのガブリエルとの関係。

ヴァロットンと女性で本が一冊書ける。

ヴァロットンの最初の伝記は女性が書いている。

著者はヴァロットンにプラトニックな感情を持っていた人。

奥さんに対しては厳しいことを書いている。

奥さんの父親、岳父は厳しく財産の管理をしていた。

版画から絵を描くようになるのは、生活費を折半していたから。

ヴァロットンはケチで、奥さんは浪費家。

ヴァロットンはけっこうイライラしていた。

それ以外の女性とはどうだったか?

奥さんはプロテスタントで、モデルが裸になるのを厭がった。

ガールフレンドもたくさんいたし、庶民階級の女性もいた。

ヴァロットンは、けっこう女性関係があった。




「三菱一号館美術館」ホームページ


「ヴァロットン―冷たい炎の画家」ウェヴサイト



今年の4月末、フランスへ8日間、行ってきました。

最終日の4月29日(火)、オルセー美術館へ行くことができました。

ヴァロットンの作品は、「ボール」など、まとめて4点ほど観ることができました。

図録を購入したので、ヴァロットン関連の記事を、以下に載せておきます。


フェリックス・ヴァロットン「外国人のナビ」

ローザンヌに生まれたフェリックス・ヴァロットン(1865-1925)は1882年にパリに出て、アカデミー・ジュリアンに入る。1885年、彼は始めて絵画を発表し、「理性の本」の作成を始める。これは彼の作品を系統的に列挙したもので、死ぬまで彼はこれを続けることになる。生活費を得るために彼は絵画修復家になった。彼はトゥールーズ・ロートレックやヴュイヤールと知り合い、木版画の制作を始め、フランスはじめ外国の雑誌の編集者からも注文を受けるようになる。やがて彼は「ラ・ルヴュ・ブランシュ」誌の主要なイラストレーターになった。この雑誌の経営者はナタンソン兄弟で、彼らはこれを前衛芸術発表の場にしようと考えた。これを機にヴァロットンは広くナビ派の面々と知り合いになり、1892年にその運動に加わった。彼が特に親しかったのはヴュイヤールとボナールである。技術的に新しい試みを多く行った「外国人のナビ」はまた、絵画と同じくらい木版画も制作しており、油絵には木版の影響がかなり見られる。彼は厳しい目で主題を扱い、往々にして不安感を与えるほどフォルムを極限まで単純化し、面をマス(塊)として扱い、色の広がりで量感を示している。「彼は辛辣さを楽しむ」とジュール・ルナールはその「日記」に記している。「ボール」では、影を先行させながら、小さな赤いボールを追って走る子供のシルエットが、地平線もなく不安を感じさせる広い空間の中にポツンと小さく描かれている。「シャトレ劇場の4階桟敷」では、ほとんど空席の観客席がやはり空白感を与えており、遠近法もデフォルメされている。1899年に彼はアレクサンドル・ベルネームという大画商の娘と結婚し、それまで辛辣に批判し続けていたブルジョワ階級の仲間入りすることになる。こうして彼の絵画はナビ派から離れ、冷たく風変わりな写実主義へと変わってゆく。



東京藝術大学大学美術館で「法隆寺 祈りとかたち」を観た!



東京藝術大学大学美術館で「法隆寺 祈りとかたち」を観てきました。


法隆寺とは

法隆寺は、推古天皇15年(607)、聖徳太子によって創建された日本を代表する古刹です。その歴史は、仏教の振興に力を尽くした太子への篤い信仰とともに発展し、約1400年の間受け継がれてきました。建物は、金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍からなり、平成5年(1993)には、現存する世界最古の木造建築群として、日本で初めてユネスコの世界文化遺産に登録されています。また、法隆寺に伝わる文化財は数万点にも及び、美術工芸品においては、国宝20件、重要文化財125件を有しています。


法隆寺における太子信仰

聖徳太子は、日本における仏教の本格的な受容者として、平安時代には太子自身が崇敬の対象とされるようになりました。そのため多くの太子の像が絵画、彫刻に描かれてきました。中でも多く取り上げられたのが、2歳、16歳の姿です。2歳像は東を向いて合掌、「南無仏」と唱える姿に、また16歳像は、父用明天皇の病気平癒を願い、柄香炉を手に執る姿に表されています。このほか7歳像、水鏡を用いて自分の姿を描いたとされる水鏡御影などが単独像としてあるほか、聖徳太子絵伝には生涯を通じてその重要な事績が取り上げられてきました。


この展覧会の「見どころ」は、以下の通りです。

その1 法隆寺の至宝を総合的に紹介する、東京では20年ぶりの大規模な展覧会。

その2 法隆寺金堂(国宝)から国宝・毘沙門天、国宝・吉祥天が出陳。

その3 飛鳥後期の至宝・金堂壁画を、貴重な模写で再現。

その4 岡倉天心にはじまる東京藝術大学との関わりをひもとく。

その5 近代美術の大家による法隆寺を主題とする絵画・彫刻を紹介。


展覧会の構成は、以下の通りです。


第1章 美と信仰―法隆寺の仏教美術

第2章 法隆寺と東京美術学校

第3章 法隆寺と近代日本美術



第1章 美と信仰―法隆寺の仏教美術




第2章 法隆寺と東京美術学校




第3章 法隆寺と近代日本美術




「法隆寺 祈りとかたち」

推古15年(607)、聖徳太子によって創建され、現存する世界最古の木造建築群としてユネスコの世界文化遺産に登録されるなど、日本を代表する古刹として、多くの人々から親しまれている法隆寺。こんたび、東日本大震災からの復興を祈念するとともに、新潟県中越地震復興10年という節目の年に、法隆寺に受け継がれる寺宝の数々を公開する展覧会を開催いたします。除災や国家安穏を祈って造られた金堂(国宝)の毘沙門天、吉祥天(いずれも国宝)をはじめ、飛鳥、奈良時代以降の優れた彫刻や絵画、色鮮やかな染織品を含む工芸など、時代を超えて受け継がれてきた仏教美術の精髄が出陳される貴重な機会となります。また、フェノロサや岡倉天心による明治期の調査を発端として、法隆寺所蔵の文化財保護と継承に携わってきた東京美術学校(現・東京藝術大学)の活動や、法隆寺を主題に制作された近代の絵画、彫刻も紹介します。


「東京藝術大学大学美術館」ホームページ


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東日本大震災復校祈念・新潟県中越地震復興10年

「法隆寺 祈りとかたち」

平成26年3月1日発行

編集:仙台市博物館

    東京藝術大学大学美術館

    新潟県立近代美術館

    朝日新聞社

発行:朝日新聞社




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東京藝術大学大学美術館・陳列館で「別品の祈り 法隆寺金堂壁画」を観た!




1949年の火災で焼損する前、明治から昭和にかけ、たった一人で全12面を生涯で3回模写したのが、鈴木空如です。秋田県出身で兵役を経て東京美術学校で日本画を学んだ。仏教美術を伝えるため、全国の仏画模写に生涯を捧げた孤高の画家です。実寸の巨大な画面は、焼損以前の姿を今に伝えてくれます。


空如は、東京美術学校在学中に、桜井香雲の金堂壁画模写を見て感銘を受け、仏画模写を志したといわれる。彼の模写は箱根鈴木家本(大正11年完成)、平木浮世絵財団本(昭和7年完成)、秋田県大仙市本(昭和11年完成)の3機に分かれ、今回は最も完成度が高い大仙市本の模写の一部が展示されています。


NHK日曜美術館

2014年5月18日放送

「祈りの仏画 鈴木空如と法隆寺金堂壁画」


鈴木空如:

明治6年(1873)~昭和21年(1946)。本名鈴木久治。秋田県仙北郡小神成村(現大仙市太田町)生まれ。兵役後の明治31年(1898)に東京美術学校日本画科撰科に入学。山名貫義、東洋美術史の大村西崖に師事。明治35年に卒業。平福百穂・松岡映丘と同期。さらに研究科に進むが、明治40年頃から仏教画像の模写・制作に専念し、法隆寺金堂壁画模写の他にも大小4000枚ほどの貴重な資料を残している。終生、画業で名声を求めることなく、昭和21年(1946)に箱根の親戚宅で死去。


鈴木空如「法隆寺金堂壁画模写」

昭和7年(1932)~11年(1936)頃






「別品の祈り 法隆寺金堂壁画」
法隆寺と東京藝術大学(旧・東京美術学校)の関係は古く、フェノロサや岡倉天心による明治期の調査や金堂壁画再現模写事業をはじめとして、本学では法隆寺所蔵の文化財保護と継承に努めてまいりました。この度は、これまでの画家の手による「模写」という形での文化財保護の歴史を振り返り、さらに未来にむけての新たな文化財保護を予感させる展覧会を企画いたします。

1949年に焼損した法隆寺旧金堂壁画を全面原寸大で焼損前の姿に復元するとともに、最先端技術のスーパーハイビジョン(8K)プロジェクターを用いて、法隆寺金堂をテーマとした超高精細映像表現を展示します。焼損前に撮影されたガラス乾板やコロタイプ印刷、画家による模写などの資料をもとに、最先端のデジタル技術によって画像を統合し、さらに、東京美術学校から受け継がれてきた「伝統」に、「現代」を織り込んだ新しい模写を提示できるものと考えております。

本展時は、文部科学省「革新的イノベーション創出プログラム(COI STREAM, COI-T)」の研究課題です。この研究事業では、東京藝術大学が培ってきた芸術の発想力を最先端デジタル技術の開発に導入する高次元なハイブリッドによって、決して科学技術のみでは到達できなかったイノベーティヴな技術開発と高品質な文化コンテンツの開発を行っていきます。


「東京藝術大学大学美術館」ホームページ


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東日本大震災復校祈念・新潟県中越地震復興10年

「法隆寺 祈りとかたち」

平成26年3月1日発行

編集:仙台市博物館

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発行:朝日新聞社




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三軒茶屋「ヨーロッパ食堂」でランチを食べる!



ホントは人に教えたくない店、三軒茶屋(正確には太子堂)にある「ヨーロッパ食堂」。ランチは自家製生パスタとカレー、それぞれ数種類、スープまたはサラダがつきます。すべて1000円です。


もう何回も行ってますが、「渡りガニのトマトクリームソース」だけは、手も汚れそうだし、食べるのも面倒そうなので、頼んだことがありませんでした。が、しかし、他の人が食べているのを見ると、美味しそうに食べてるんですよ。よし、今回は「渡りガニ」食べてみようと決心。たしかに蟹の皮を剝くので食べづらいし、手も汚れます。でも美味しいんですよ、この渡りガニが・・・。


家人は「エビとタコのラグーの生トマトソース」でした。スープまたはサラダ、僕は迷うことなくスープを、この日はミネストローネでしたが、いや、これも美味しい。その日は、よく知られた落語家とその家族が、僕らのお隣の席でした。






「ヨーロッパ食堂」ホームページ


「ヨーロッパ食堂」食べログ

明日から「大人の休日倶楽部パス」を使って旅に出ます!


明日19日から22日まで4日間乗り放題の「大人の休日倶楽部パス」を使って、新潟と福島・岩手へ旅に出ます。じつはあまり細かく日程を検討していなくて、出たとこ勝負の旅になりそうです。


その間、ブログはお休みしますが、穴埋めとして4月末に行ったフランス旅行、4月28日夕方に、船で世界遺産セーヌ河岸の景観を楽しむ「セーヌ河クルーズ」(約1時間)の画像を、4日間に分けて載せておきます。

上越新幹線浦佐駅

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