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菊竹清訓の「出雲大社庁の舎」を観た!

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出雲大社へ行きたいと長年思っていたのは、実は菊竹さんの初期の傑作でもある「出雲大社庁の舎」(1963年)を観たかったからにほかなりません。もう一つの傑作「ホテル東光園」(1964年)の方は、今回、観ることができませんでした。 現在は「庁の舎」の本殿寄りに建物が建っていて、全景は残念ながら観ることができません。また、建設当初の主要な機能である「宝物展示」は、真向かいに菊竹さんが設計した「神祜殿(しんこでん)」に移り、現在、「庁の舎」は賓客を迎える場所として使われているようです。


伊東豊雄は「建築家・菊竹清訓さんを悼む」(朝日新聞:2012年1月9日)で、以下のように書いています。

私にとって菊竹氏の建築の最大の魅力は、モダニズム全盛の時代にありながら、日本の伝統的建築のモチーフを実に見事に取り入れていた点にある。例えば初期の代表作である「出雲大社庁の舎」では刈り取った稲を架ける「稲掛け」が、「ホテル東光園」では「大鳥居」がモチーフになっている。続けて、モダニズムの建築が初期の革新性を失って繊細な美しさのみを追求している昨今、菊竹氏の初期建築が示す力強い象徴性はきわめて示唆的と言えよう、と。


菊竹は言う。「庁の舎」を何に使うのか。どんな機能を持たせたらいいのか、分からない。そこで考えたのは、機能にこだわる必要はない、と。機能はは何十年、何百年の時間の流れの中に入れると、消えていく。施主が必要と言っていた機能が、30年経って必要とされるかは分からない、と。当初の機能は、現在では変わっています。


古代社会を組み立てていたものは何か? 出雲大社本殿は一体何か? 古代出雲を支えていたのは稲作文化です。大社の本殿は古代の住宅に由来するという説が有力ですが、僕は直感的に米蔵だと思ったのです。本殿が蔵ですから、庁の舎は稲掛けをモチーフにしたのです。米は、蔵に納める前に、稲を天日で乾燥させます。遊廓気になると出雲平野には一面、稲を吊して干すための高さ約5mくらいの稲掛けが作られます。稲作文化の「かたち」が庁の舎なのだ、と菊竹は言います。


出雲大社庁の舎(1963年)

出雲大社の社務所および宝物殿に相当する施設。建物を特徴づけているのは、その明快でダイナミックな構造形式の表現である。長さが50mに及ぶ2本のPS(プロストレス)コンクリート梁は、建物両端のマッシヴな箱(階段室)の間に架け渡され、梁にはPC(プレキャスト)コンクリートの方立が寄せ架けられ、さらにその間にPCコンクリートの横桟がはめ込まれている。その明確な秩序づけられた部材構成には、古代的な秩序を持った木造建築(出雲大社本殿)との対比が見られる。同時に単なる日本的表現ではなく、形態システムの再構築に向けての意志が込められている。

(新建築1991年6月臨時増刊「建築20世紀PART2」より)


菊竹清訓(1928-2012)

1960年代、建築評論家の川添登らとともに、メタボリズムを提唱。「海上都市案」などを発表し、常に新しい時代の、来るべき建築の姿を構想した。1959年の自邸・通称「スカイハウス」に始まり、1975年の沖縄海洋博パヴィリオン「アクアポリス」、1993年「東京都江戸博物館」と、建築空間の新しさを過剰なまでに求めるその姿は、戦後建築界でもひときわ際立っているように見える。また、伊東豊雄を始め、菊竹に直接・関節に学んだ次世代の建築家は数多い。建築構想のダイナミックさ、後進に与えた影響などの点で、丹下健三にも比肩しうる建築家である。


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参考画像:



とんとん・にっき-meta16 「代謝建築論―菊竹請訓 か・かた・かたち」

著者:菊竹請訓

発行:1969年1月

出版社:彰国社











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