丹下健三といえば、僕が建築を学び始めたころは、もう世界の建築をリードする大建築家でした。都内にある丹下建築は、もちろんほとんど見ていますが、香川県庁舎を見るためにわざわざ四国まで行ったこともありました。丹下健三ご夫妻を一度だけ見かけたことがあります。竣工間もない赤坂プリンスホテルの、床や壁が白い大理石でおおわれた、白いピアノが置いてあるロビーで、「あっ、丹下さんだ!」と思った瞬間、丹下ご夫妻は僕の横を過ぎ去りました。バブル時代の象徴とも言われた「アカプリ」、赤坂プリンスホテルもつい最近、解体されました。
僕の友人数人も、丹下健三にあこがれ、丹下事務所に入所しました。その数人は、どういうわけが少しずつ丹下事務所時代がずれいました。ある時、友人のひとりを訪ねて草月会館にあった丹下事務所に行ったところ、鈴木俊一が何期目だったか都知事に当選したときで、ほとんどの所員は選挙結果報道のテレビに釘付けで、事務所内が騒然としていたことを覚えています。その時、丹下健三と森英恵は、鈴木陣営の選挙本部長でした。その後、東京都庁のコンペで丹下案が当選する、とういうわけです。
芸術新潮2013年8月号で「生誕100年記念大特集 磯崎新が読み解く知られざる丹下健三」を読みました。
国立代々木競技場、大阪万国博会場、新旧ふたつの東京都庁舎・・・時代を画した数々の名建築を生み出し、「世界のタンゲ」と呼ばれたニッポン最大の建築家・丹下健三(1913-2005)。その未発表史料が、ついに誌上初公開! 新進気鋭の建築家として活躍し始める1940年代から、タンゲ建築がひとつの頂点をなした1970年までの、書簡類、スケッチ、本人撮影の写真など、膨大な新史料をもとに、タンゲの弟子として共に活動した磯崎新が、巨匠の実像を浮かび上がらせます。
今回の特集の導入部は上のように書かれていて、「東京計画-1960」の模型の前に立つ蝶ネクタイ姿の丹下健三が映っています。続いて巻頭の5つの作品、「国立代々木競技場」「成城の家(自邸)」「広島ピースセンター」「東京カトデラル聖マリア大聖堂」、そして「大阪万国博覧会」の見開き2ページの画像です。これだけを見ても時代を画した数々の名建築であり、それを生み出した天才建築家・丹下健三の力量がよく分かります。「こういう時代に生きてきたんだな」と、ひしひしと伝わってきました。なぜか「大阪万博」以後の作品は、この特集では話題に上ってきません。
磯崎新が読み解く知られざる丹下健三
丹下健三が生まれて100年目にあたる今年、建築家としてのキャリアの前半にあたる部分、つまり1970年の大阪万博以前の史料が公開されることになりました。何十冊もの写真アルバム、書簡の量も半端ではない。海外への手紙のコピーもあります。海外や旅先から家族にあてた手紙や絵葉書。手帖に描かれたスケッチ類。太田がこの史料の存在を知ったのは、8年前、メタボリズムの本を作っていたときのこと。1950-60年代の丹下に近いところにいた数名に話を伺い、そのひとりが丹下の最初の夫人だったという。
この新史料を「芸術新潮」誌上で紹介するにあたり、建築家の磯崎新にすべてを見てもらい、話を伺うというのが最良の方法であると、太田は考えます。丹下と磯崎は東大の建築学科では先生と教え子、大学院修了後は研究(設計)室のボスとスタッフ。独立後は、建築・都市計画のパートナーとして、1950年代半ばから約20年間、ごく近い関係にありました。僕の記憶のなかでは「スコピエ計画」が印象に残っています。大阪万博では磯崎はお祭り広場の共同設計者でした。しかしそれを境に磯崎は都市から撤退し、ファインアートを標榜するようになります。さらに20年後、丹下と磯崎は奇しくも新都庁舎のコンペで競合相手となります。磯崎は丹下の弔辞を読んだし、丹下を師と仰ぐ気持ちは、揺らぐことがないように見える、と太田はいう。
対談のなかで興味深い箇所や、面白い箇所は幾つもありますが、ここにすべてを書くわけにはいきません。
僕が目に付いた箇所について、以下の載せておきます。丹下が戦中・戦後に書いた「二つの論文」、そのひとつ、「MICHELANGELO頌」は「日本建築宣言文集」(彰国社:昭和48年11月10日第1刷発行)に入っていたので読みました。「大東亜建設記念営造計画」は、手元にないのですが、中真己の「丹下健三序論」で読みました。対談に出てくる丹下の「イタリア紀行」、ローマのカンピドリオ広場、パラッツオ・ファルネーゼ、パンテオンは観に行きましたが、フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館は修理中では入れませんでした。丹下も実際に見ていたかどうか、磯崎は留保しています。
圧巻はその2に出てくる自邸「成城の家」に集まる「アーティストとの交流」です。美術界やデザイン界のそうそうたる人物がやってきて酒を酌み交わし交流を深めていたようです。なかでも岡本太郎との関係が面白い。要は丹下も岡本も互いに対立のまま繋がっていたという磯崎の話には納得させられます。丹下の「成城の家」と清家清の「森於菟邸」、共に和風のモダニズムで高床です。しかし丹下は住宅といえども都市性を持つべきだと言っていたという。ただし、あの開放性には家族は迷惑されたかもしれないけど、友人を招き入れるには理想的なモデルだったようです。
まだ会ったことのないサーリネンから手紙が届きます。「あなたの作品は時々雑誌で見ているけれど、僕たちの間には共通する何かがあると思う。じつは来月日本に行くからぜひ夕食を一緒にどうか」と。磯崎によると、1950年代の後半は、サーリネン事務所と丹下研は互いに追っかけあってるような具合。サーリネンは毎回違うデザインをやっていた。丹下のやり方もそれに近かったので、お互い関心を持ったのだと思う、と。サーリネンが亡くなったのは1961年で、東京に来たのが1959年、手紙を見ると丹下がMITに教えに行った時にサーリネンにもう一度会っています。
ドキシアディスの主催する異色の国際会議「デロス会議」、丹下も呼ばれ、フラーやトインビーも参加していた。「アテネ憲章」を採択した1933年のCIAMの30年後のヴァージョン。毎年、船で地中海をクルーズしながら最先端の議論を戦わせていた。その6年後、1972年にローマクラブが「成長の限界」を提言、丹下はその報告を知って衝撃を受け、資料を取り寄せてスタッフに読むように指示したという。僕が「成長の限界」を知ったのは、カリフォルニア大学バークレーから帰ったばかりの江平完爾さんから聞いたのが最初でした。
丹下が1970年代以降に大活躍する中近東を初めて訪れたのは1965年の夏です。こうして丹下はグローバル・アーキテクトの先駆けになっていきます。サウジ国王、ケネディ家、電通の吉田秀雄社長といって、国内外のVIPに丹下は気に入られていきます。サウジアラビアを起点に、1970年代以降の丹下は、クウェート、イラン、シリア、アルジェリア、ヨルダンと、中近東各地、等々、世界40ヶ国でオフィシャルな大型プロジェクトを任されます。ところが大阪万博以後、国内での大きな仕事がこなくなった時期がありました。磯崎はそれを「海外への亡命」と言う。しかし、イタリアやシンガポールでの大躍進が続きます。
丹下の都市と建築の壮大なイマジネーションは、彼の時代に起こった世界的規模の近代化、グローバル化の中で実現されます。1950年代に国際デビューした建築家が、20世紀の後半に近代国家ができあがっていく過程でナショナルアイコンを作っていった。世界の変化のなかで、丹下は建築家としての「構想力」を一本の軸線を引き続けるようにかたちにしていった、といえるのではないかと、磯崎は結んでいます。
「建築と都市―デザインおぼえがき」
昭和45年9月10日第1版発行
著者:丹下健三
発行所:彰国社
昭和45年9月10日第1版発行
著者:丹下健三
発行所:彰国社
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