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酒井充子監督作品「台湾アイデンティティー」を観た!

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ポレポレ東中野で、酒井充子監督の「台湾アイデンティティー」を 観てきました。チラシには「日本が台湾を去ったあと、彼等は時代のうねりに翻弄された。教科書には載らないほんとうの歴史がそこにある」として、以下のようにあります。

東日本大震災の際、台湾から200億円を超える義援金が寄せられたことは記憶に新しい。一方、日本から台湾へは昨年(2012年)、過去最高の約144万人が訪れた。台湾を訪れる日本人の多くが台湾に日本の面影を見るという。なぜなのか?それは台湾の田園風景や各地に残る日本統治時代の遺構によるところが大きいであろうが、何よりも台湾の人々がそうさせるのだ。台湾は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの半世紀、日本の統治下にあった。日本語で教育を受けた「日本語世代」といわれる老人たちは、単に日本語を話すだけではなく、その精神性や行動パターンに至るまで全身に「日本」が染みついている。彼らへのインタビューを通して台湾と日本の近現代史をクローズアップさせた『台湾人生』(2009年)から4年、戦後70年という長い年月が過ぎ、日本語世代と呼ばれる人々は少なくなった。それでも、ある種の「日本人性」を包含している彼らは、今も台湾で存在感を失ってはいない。彼らの人生、特に日本が台湾を去ったあとの道のりとはいかなるものだったのか?


監督は2002年から台湾での取材を始め、初監督ドキュメンタリー「台湾人生」(09)で「日本語世代」へのインタビューを通して日本と台湾の解けない関係性を描き出し、劇場ロングラン・ヒットを記録した酒井充子。「台湾人生」の劇場公開を経て得た新たな出会い、発見を糧に脹れ上がった台湾への語り尽くせない想いが本作へとつながった。またひとつ、忘れてはいけない歴史が刻まれた。


高菊花さん 日本名:矢多喜久子 ツオウ族名:パイツ・ヤタウヨガナ

白色テロによって父親を奪われた人

1932年(昭和7年)生まれ。ツオウ族のリーダーだった高一生の長女。日本人と同じ小学校に通い、師範学校に学ぶ。米国留学準備中に父が逮捕、処刑。家族の生活を支えるため歌手になる。
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黄茂己さん 日本名:春田茂正

「本当の民主主義とは何か」子供たちに伝え続けた人

1923年(大正12年)生まれ。台湾少年工の一員として神奈川県の高坐海軍工廠へ。挺身隊員だった妻と知り合い、敗戦直後に日本で結婚。台湾帰国後は小学校教員として定年まで勤めた。

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呉正男さん 日本名:大山正男

シベリア抑留のおかげで死なずに済んだと言う人

1927年(昭和2年)生まれ、横浜市在住。東京の中学に進学し、航空通信士として現在の北朝鮮で敗戦をむかえる。捕虜収容所での強制労働の後、日本へ戻り進学・就職。

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宮原永治さん 台湾名:李柏青 インドネシア名:ウマル・ハルトノ

日本の敗戦で台湾に戻れなかった人

1922年(大正11年)生まれ。戦場を転々とし、戦後にインドネシア国籍を取得した残留日本兵のひとり。オランダからの独立戦争を戦った。日本企業のジャカルタ支社に就職。

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張幹男さん 日本名:高木幹男

青春の8年間を監獄で過ごさねばならなかった人

1930年(昭和5年)、台湾人の父と日本人の鼻の間に生まれる。台湾独立派の日本語の冊子を翻訳しようとして「反乱罪」で逮捕。現在、旅行会社の会長。

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以下、とりあえず「シネマトゥデイ」より引用しておきます。

チェック:第2次世界大戦後の台湾で日本から中華民国へと統治国が移る過程で、波瀾(はらん)万丈な人生を送った6人の台湾の人々を取材したドキュメンタリー。中国国民党による支配の時代が長く続いた台湾で、弾圧に対して蜂起した二二八事件、白色テロを体験した6人がその激動の人生を振り返り、現在の思いを語る。監督は、『台湾人生』で台湾の日本語世代の日本への複雑な感情を取り上げた酒井充子。戦争と国家に翻弄(ほんろう)されながら、なお彼らが見せる台湾人としての誇りある生きざまに心を揺さぶられる。

ストーリー:1895年から大戦終結の1945年まで日本が統治していた台湾。高菊花さんは、戦後父親が処刑され、自身も国民党の尋問を17年間も受け続けた。日本名・宮原永治さんは派兵されたインドネシアに残り、オランダからの独立戦争を戦った。そのほか、黄茂己さん、鄭茂李さん、呉正男さん、張幹男さん、戦前から戦後を生きた6人が、激動の人生を語る。


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日本統治後の台湾を知るための用語解説

二二八事件
1947年2月27日の夜、中国人である国民党の専売局闇タバコ摘発隊が台湾人女性に対し、暴行を加える事件が起きた。これに抗議した群衆に向って摘発隊が発砲し、一人を殺害。これに対し、翌2月28日に台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊が非武装のデモ隊へ向けて無差別に一斉掃射を行い、多数の市民が死傷。これが発端となって、政府関連の諸施設への抗議行動や、中国人に対する襲撃事件が台湾全島で頻発。台湾人はラジオ放送局を占拠するなど、多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸に援軍を要請し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。この際、裁判官・医師・役人をはじめ、日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、その多くは殺害された。この事件によって、約2万数千人の台湾人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言われている。1989年に公開されヴェネチア映画祭グランプリを獲得したホウ・シャオシェン監督『悲情城市』はこの事件をテーマにしている。


白色テロ
革命運動や民主化運動などの反体制活動に対する為政者による弾圧行為のこと。強権的警察行為や言論弾圧をさす。台湾では、国民党政府により1949年から1987年まで38年間にわたる戒厳令が敷かれ、この間に数多くの人々が謂れなき罪で逮捕、拘禁、拷問、銃殺された。恐怖の空気が社会全体を覆い、台湾社会の発展に重大な影響を与えた。エドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』(91)、ウー・ニェンチェン監督『多桑 父さん』(94)、ホウ・シャオシェン監督『好男好女』(95)など、白色テロをテーマに描いた映画も多く存在する。


高一生
1908年に阿里山に生まれた高一生は、日本植民地時代に台南師範学校に学んだツォウ族の原住民族エリートで、日本名は、矢多一生(やた かずお)。高一生は、戦後になってからの中国名であり、民族名はウォン・ヤタウヨガナ(Uongu Yatauyongana)である。日本統治期に警察官、教員を務め、戦後は呉鳳郷(現・阿里山郷)の郷長となった。原住民の自治を主張していたため国民党から要注意人物とされ、白色テロの中、無実の罪で、1954年4月17日、ツォウ族の湯守仁、方義仲、汪清山、タイヤル族の林瑞昌、高澤照らとともに銃殺された。90年代に入り、高一生は、多数の原住民族の政治受難者とともに名誉回復がなされた。2013年4月に日本公開されたウェイ・ダーション監督『セデック・バレ』(11)に登場する原住民と日本人との間で板ばさみとなり自死を選んだ花岡一郎、二郎は、ほぼ同世代のタイヤル族出身エリートである。


シベリア抑留
第二次大戦終結時にソ連軍に降伏・逮捕された日本軍人その他がシベリアで強制労働に従事させられた。その大部分は関東軍軍人で、これに樺太・千島、北朝鮮で武装解除された部隊が加わり、その数は日本政府推定で57万5000余人とされる。ポツダム宣言第9項は日本軍隊の郷里への帰還を約束したが、ソ連はそれを無視しシベリア(47万2000人)、外蒙古(1万3000人)、中央アジア(6万5000人)、ヨーロッパ・ロシア(2万5000人)など約1200ヵ所の捕虜収容所・監獄に収容して土木建築、鉄道建設、採炭・採鉱などの重労働に従事させた。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡したとされる。2010年6月、生存する元抑留者に対し、抑留期間に応じて一人25万円から150万円を一時金として支給する「シベリア特措法」が施行されたが、日本国籍を有しない者はその対象から除外された。


「台湾アイデンティティー」公式サイト




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