アヤ・ソフィア聖堂(アヤ・ソフィア博物館)
ブルーモスクを見て、ローマ競技場跡に行き、アヤソフィア聖堂の前を通って、トプカプ宮殿へと行きました。アヤ・ソフィアは当然見るものと思っていましたところ、あれあれという間に通り過ぎてしまいました。どうもツアーのコースには入っていなかったらしく、アヤ・ソフィアは外観のみ見るだけでした。なんとも情けない。格安ツアーはこれだから困ります。
アヤ・ソフィア(ギリシャ語アギア・ソフィア)は聖なる叡智を意味し、この聖堂がギリシャ正教の本山でした。 360年、ビザンティンのコンスタンティウス2世によって聖堂が建てられましたが、その後、度重なる火災に遭いました。532年にはニカの乱によりテオドシウス2世の建てた聖堂が焼け落ちたため、ユスティアヌス帝は直ちに再建にかかり、537年にビザンチン美術の最高傑作とされる大聖堂が完成しました。バチカン市国のサン・ピエトロ寺院はアヤ・ソフィアより大きいが、建てられたのはおよそ千年も後のことでした。
アヤ・ソフィアの建造には領内各地から石材が運ばれました。堂内の緑色の柱はエフェソスのアルテミス神殿から、赤い斑のある柱はレバノンにあるパールベックのアポロン神殿からという。直径31mの巨大ドームは高さ54mの高みにあって、天上の国を想わせ、壁のそこここにあるモザイク画はランプの光で金色に輝きました。
ローマ競技場跡(ヒポドローム)
ブルー・モスク西の広場は、3世紀初頭に建造された競技場跡。3万数千人の観客熱狂に中で、戦車車によるレースなどが行われました。後にはそれぞれのひいきグループが政治勢力に発展。ユスティニアヌ1世の532年には、行程の不満から観衆が暴徒化し、ビザンティン帝国をゆるがす有名な「ニカの乱」が発生したが、王妃テオドラの諫言に思いとどまって暴徒を鎮圧し、数千人をここで処刑しました。また19世紀の初めには反乱を起こしたイェニチェリ軍団の多数が、この広場で処刑されました。
広場に立つ3本の記念碑のうち北は、テオドシウス帝がエジプト・カルナックのアモン神殿から運んだと伝えられています。基部の台座に競馬を見物するテオドシウスの姿が掘られています。南は表面が第4回十字軍によって破壊されていて詳細は不明。真ん中の大蛇が絡み合った青銅の柱は、ギリシャ・デルフォイのアポロン神殿から運ばれました。
ローマ競技場跡近くの商店
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*参考文献
2012年4月5日第4版第1刷発行
編集:ブルーガイド海外版編集部
2010年12月15日第1刷発行
著者:飯島英夫
発行所:冨山房インターナショナル