京都、堀川通から中立売通へ入り、油小路通を北に上がると「樂美術館」があります。樂美術館で「樂歴代 春節会」を観た帰り、同じ道を戻ろうとしたら、中立売と油小路通の交差点角に、記憶に残っていた建物の外観が見えました。樂美術館へ行くときは気がつかなかったのですが、帰りには否が応でもこの建物の正面と向き合うかたちになり、「おぅ、これだ、これだ!」と思い出したわけです。建物の名は「西陣電話局」、設計者は逓信省の技師・岩元禄(1893-1922)です。
一高のドイツ語教師である兄の岩元禎は、夏目漱石の小説『三四郎』に登場する「偉大なる暗闇」こと広田先生のモデルだと言われる。1922年1月、東大助教授(建築意匠論)に就任したが、同年秋に結核を発病。療養生活に入り、翌年死去。 (「ウィキペディア」による)
学校で受けた「建築史」の授業でも、もちろん出てきました。日本建築学会編の「近代建築史図集」にも載っている歴史的な名建築です。以前、前川國男の「笠間邸」も、偶然、前を通りかかって見つけました。「西陣電話局」も、まったくの偶然の出会いでした。それにしても、伝統を重んじる京都の街中に、なんと裸婦像ですよ、ちょっとエロくない? まあ、今ではまったく西陣の町に溶け込んでいますが・・・。逓信省の関連では、「東京中央電信局」を設計した山田守や、「東京中央郵便局」を設計した吉田鉄郎は、逓信省経理局営繕課では岩元禄の後輩に当たります。
「近代建築史図集」の解説本である「近代建築史概説」には、以下のようにあります。
・・・完成してから今日までほとんど姿を変えることなく残り、しかもオーストリアのゼセッションの建築に内容的に最も近く、作品としての完成度の高い作品として挙げることのできるのは、岩元禄の京都の西陣電話局(1920年)である。特に正面玄関上の外壁や軒下にほどこされた天女をモティーフにしたレリーフなどには、洒脱な形と軽快なリズム感があふれていて楽しいものになっている。夭折が惜しまれる建築家である。 (「近代建築史概説」より)
新建築1991年1月臨時増刊「建築20世紀PART1」には、以下のようにあります。
西陣電話局
肺結核のため、29歳で世を去った建築家の現存する唯一の作品であり、死の前年に竣工された。建築は鉄筋コンクリート壁レンガ造であるが、今日ではその一部分だけが残されている。出入口には、3人の裸婦が付け柱の上に立っており、人を導く。そして、その姿は背後にしつらえたアーチ型のレリーフ・パネルに増殖し、中央に張り出した出窓を囲んでいる。その表現派的な立面造形は、京都という町並みにおいてあまりにも異形であり、刺激的である。岩元の非凡な才能を示すに十分と言えよう。現在、建物のファサードは、民間企業のビルの一部として、現代建築の中に埋まるような形で残されている。それは、夭折した建築家の情念が壁に塗り込められたかのような異様な迫力を持ち、作品の永遠性を作者が今なお思考しているかのような情趣である。(新建築1991年1月臨時増刊「建築20世紀PART1」より)
「銘板」には、以下のように記されています。
この建物は、大正10年、京都中央電話局西陣分局として建設されました。設計者の逓信省技師・岩元禄は、日本近代建築の黎明期、大正時代において、建築の芸術性をひたすら追い求め、わずか3点の作品を残したのみで夭折した天才的な建築家であります。この西陣電話局は、彼の現存する唯一の建物でもあり、文化的・学術的に非常に高く評価されております。日本電信電話株式会社としても、このすばらしい建物を永く後世に伝えようと、この度改修工事を行い、保存・再生することといたしました。皆様方の電話局として末永く親しんでいただければ幸いです。
昭和60年10月23日
日本電信電話株式会社
取締役 関西総支社長
齋伯 哲
旧建物概要: 名称 京都中央電話局西陣分局
規模 鉄筋コンクリート造 一部木造 3階建
面積 延 1178㎡(再生部分)
建物沿革: 大正10年(1921) 建物竣工
大正11年(1922) 業務開始
昭和33年(1958) ダイヤル自動化に伴い手動交換業務廃止
昭和58年(1981) 電子交換機導入に伴い一部模様替
昭和59年(1984) 保存・再生のため改修工事着工
昭和60年(1985) 同工事竣工
保存部分: 軀体、壁面、軒裏レリーフ、裸婦像、ライオン像、3階柱廊