京都国立近代美術館(槇文彦設計)には何度か行ったことがあるのですが、京都国立博物館を訪れるのは初めてのことです。京都国立博物館は赤坂・迎賓館を設計した宮廷建築家・片山東熊によるものです。2泊3日の名古屋・京都旅行の際に立ち寄ったのですが、特別展観「国宝十二天像と密教法会の世界」が開催されていました。まったく僕の苦手な分野ですが、なにはともあれ観ないことには始まりません。わけもわからず、観てきました。名古屋・京都から帰って、以下のように書きました。
さて京都の第二日目は、京都国立博物館で「特別展覧 国宝十二天像 密教法会の世界」を観てきました。同時開催として「成立800年記念 方丈記」がありました。国宝十二天像、いや、もう、第一室に展示されている「国宝十二天像」12幅をみただけで、ぐったりしてしまうほどでした。なにしろ国宝、重要文化財が目白押しですから、凄いのなんのって・・・。とはいえほとんど半分は分かりませんでしたが・・・。京都国立博物館、切符売り場の辺りから、これは谷口建築だなと思いました。ちょうど「新館?」が工事中で、その設計は谷口吉生の名前が出ていました。
新しい「平常展示館」のオープンは、平成26年春の予定だそうです。
それはさておき、特別展観「国宝十二天像と密教法会の世界」は、観るものすべてに圧倒されました。京都の新春の劈頭を飾る行事として著名な「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」は、正月7日までの宮中節会に引き続いて8日から14日まで7日間行われるもの。承和元年(834)、空海が宮中において天皇の安泰と国家の鎮護を祈るためにはじめて以来、一時的な中断はあるものの、現在でも場所を東寺の灌頂院に移して連綿と続けられているという。
京都国立博物館には、大治2年(1127)にこの修法のために新調された十二天像(国宝)が伝えられており、今回の展覧会は、十二幅すべてを一堂に展観し、後七日御修法の歴史を紐解く、というものです。また、平成24年は空海が日本で初めて本格的な灌頂を行って1200年に当たる記念の年でした。この重要な密教法会の歴史を知る上で、京都国立博物館所蔵の山水屏風や十二天屏風が展示されていました。
この展覧会では、空海が整備した密教法会の内、最も重要なものに数えられる宮中真言院後七日御修法や灌頂の儀礼を通じて、真言宗が守ってきた密教文化の精髄と、先人が鎮護国家に寄せた心に思いを馳せていただきたいと、京都国立博物館では展覧会の主旨を述べています。弘法大師空海については、図録に以下のような記述がありました。
密教修法が行われるようになったのは、弘法大師空海の力が大きい。弘法大師とは朝廷から与えられた尊称で、僧としての名が空海です。空海は讃岐の生まれ、18歳で都の大学寮(完了養成学校)に入ります。ところが仏教に心を寄せ、山中で修行をし、密教に触れたとされます。この東寺の密教は教理が整理されておらず、「雑密」と言います。空海はその後、延暦23年(804)に遣唐使に従って唐に渡り、密教を学ぶことになります。密教はインドでヒンズー教の影響を受け、遅く発生した仏教の一派で、中国に流入していました。「金剛頂経」を中心とする金剛頂系と、「大日経」を中心とする大日経系の二系統が重要であり、空海の師となった惠果は、これら亮流を教理的に統合した中国密教の第一人者でした。それは両界曼荼羅の世界に象徴されています(金剛頂系が金剛界曼荼羅、大日経系が胎蔵界曼荼羅)。空海は足かけ3年にわたる留学を終え、日本に正統な密教を伝えたのでした。これを「雑密」に対して「純密」と言います。空海は帰国後は、嵯峨天皇の信認を受け、高野山金剛峯寺を開創し、また弘仁14年(823)には東寺(教王護国寺)を下賜され、真言宗に礎を築いたのでした。
展覧会の構成は、以下の通りです。
第1部 国宝十二天像と後七日御修法
第1章 国宝十二天像
第2章 空海帰朝
第3章 後七日後修法のはじまり
第4章 後七日御修法の荘厳
第5章 後七日御修法のあゆみ
第2部 灌頂とその荘厳
山水屏風と十二天屏風を中心に
第1部 国宝十二天像と後七日御修法
第1章 国宝十二天像
承和2年(835)、空海の奏請によって正月8日から宮中真言院で7日間の修法が行われるようになりました。これを後七日御修法と言います。十二天像は道場を守護するために掛けられ、普段は道具類と一緒に東寺の宝蔵に収められていました。大治2年3月、東寺宝蔵は火災にあい、それまで使用されていた絵も消失してしまいます。この時新調されたのが本図です。この時の経緯は、「東宝記」巻二に詳細に説明されています。それによると、最初、東寺長者勝覚の命で、東大寺僧の覚仁は、小野経蔵 にかつて伝わり、宇治経蔵(平等院)に所蔵されていた弘法大師御筆様(空海スタイル)に基づいて調進したところ、鳥羽院から「疎荒(そこう)」との批判をこうむり、改めて仁和寺円堂後壁画に基づいて新写したという。前者を甲本、後者を乙本と区分しており、本図は乙本とみなされ、セットになる五大尊像とともに東寺に伝えられてきました。
第2章 空海帰朝
第3章 後七日後修法のはじまり
第4章 後七日御修法の荘厳
第5章 後七日御修法のあゆみ
第2部 灌頂とその荘厳
山水屏風と十二天屏風を中心に
特別展観「国宝十二天像と密教法会の世界」
承和元年(834)、空海は宮中で後七日御修法(ごしちにちのみしほ)を始めました。これは正月に行われる国家の鎮護を祈る修法で、現在でも東寺において続けられています。当館には大治2年(1127)にこの修法のため新調された十二天像が残されています。本展では、これを一堂に展示し、国宝山水屏風(当館蔵)など関連遺品とあわせて紹介します。後七日御修法と灌頂(かんじょう)という真言宗の重要法会を軸に密教文化の精髄に触れて頂きます。
図録
平成25年1月8日発行
編集:京都国立博物館
発行:京都国立博物館
同時開催「成立800年記念 方丈記」
鎌倉時代を代表する随筆として知られる「方丈記」は、鴨長明が建暦二年(1212)3月に執筆したもので、平成24年(2012)には成立800年という大きな節目を迎えます。これを記念して、現存最古の写本として名高い、大福光寺本「方丈記」(重要文化財)を中心に、関連する資料をあわせて展示します。