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世田谷美術館で「生誕100年 松本竣介展」(後期)を観た!

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松本竣介の作品は、東京国立近代美術館や神奈川県立近代美術館などで観ていましたが、まとまって観ることができたのは岩手県立美術館の、「松本竣介・舟越保武展示室」という二人の名を冠した常設展示室でした。竣介と舟越は、盛岡中学校の同級生でした。その後、群馬県桐生市にある大川美術館で「松本竣介とその時代」展を観ることができました。「大川美術館」を観た後に、学芸員の方が、来年は松本竣介生誕100年であり、全国5美術館、来年4月の岩手県立美術館を皮切りに、神奈川県立近代美術館葉山(葉山町)、宮城県美術館(仙台市)、島根県立美術館(松江市)、世田谷美術館(東京都)を巡回する計画があるといううれしい話がありました。


が、しかし、企画していた「生誕100年記念巡回展」の開催が危ぶまれていると、「河北新報」(2011年12月5日)の記事が伝えていました。東日本大震災の影響で、岩手県立美術館の企画展事業予算が来年度も引き続き凍結される恐れがあるためだという。巡回展は各美術館が費用を分担して開催するため、1館でも抜けると実現が難しいとのこと。そのような事情もありましたが、なんとか開催にこぎつけた展覧会でした。僕は「生誕100年 松本竣介展」はまず、葉山で観て、それから世田谷で観ました。そして会期末が迫る中、世田谷で再度観ることができました。


僕がやや詳しく松本竣介について知ったのは、酒井忠康が書いた「早世の天才画家」(中公新書:2009年4月25日発行)を読んだことによります。酒井は、92年から神奈川県立近代美術館の館長を務め、2004年からは世田谷美術館の館長を務めています。いうまでもなく世田谷美術館は、「生誕100年 松本竣介展」の最後の巡回地でもあります。この本は大正・昭和期の画家たち12人について書かれたものです。取り上げられた画家のほとんどは、短命のうちに世を去った「早世」の画家でした。取り上げられた画家たちは僕の好きな画家たちでもありました。そのなかに12人目として「暗い歩道に立つ―松本竣介」が取り上げられていました。松本竣介は36歳で亡くなっていました。


竣介の誕生は、1912(明治45)年、場所は東京の青山でしたが、父が林檎酒の醸造に着手するために、2歳で花巻に移っています。その後一家は盛岡へ引っ越します。竣介10歳のときでした。それから上京するまで盛岡で過ごします。盛岡中学校に入学した13歳の春に、流行性脳脊髄膜炎にかかって聴覚を失います。1929(昭和4)年、竣介17歳、中学3年を修了後、自発的に退学、現在の豊島区西池袋に住み、太平洋画会研究所に通い、絵画に集中没頭します。その本の中で酒井は、松本竣介について「戦争の暗い谷間で時代の動向に抗し主体的な自己の確立と芸術の自由を訴え続けた画家としてのイメージ」だとしています。


美術館の一室で松本竣介の絶筆「建物」の前に立ったとき、中学の同級生だった舟越保武は、「この建物の、白く光る教会のような建物の暗い入口から竣介が入っていったことを私に告げているようであった」と語っています。舟越は、竣介の臨終に会えなかったし、葬式にも出られなかった。竣介の死の知らせを盛岡で受けたとき貧乏のどん底にあって、上京の旅費を工面できなかったのだという。絵の下につけられた黒いリボンにふれて、「来られなかった、スマナカッタ」と、舟越は口の中で呟きます。それには答えないで竣介の声は、「イイシゴトヲシロ オレハヤルダケヤッタ」と、白い前歯を出して言い、明るく笑った。舟越は無限の意味を、その声からくみ取る思いがする、と舟越はいう。


36歳で亡くなった早世の画家・松本竣介の代表作は何かと問われると、多くの人が「立てる像」(1942年)をあげると思います。自分の姿を画面いっぱいに描き込んだ「立てる像」、この拡大された自画像に、わたしは松本竣介という人間の精神的なダンディズムを感じるときがあるけれども、しかし、何かしら童話的な詩情を漂わせて立つ画家の姿に焦点を合わせると人物はどんどん小さくなってゆく。影には肉体をあたえることができないからである、と酒井忠康は述べています。


時代がつつむ険悪な空気のなかで、小さなヒューマニズムの影にかわって自分の肉体をまるごと浸すことよりほかに方法がなかったとすれば、当然、画家自身が明日に向かってふく風の前に立たざるを得ない。わたしは「立てる像」をみるたびに、画家が現実という名のさまざまな鉄拳で打たれることを覚悟していたように思う。それは恐ろしいまでに矛盾をはらんだ現実である、と酒井は続けています。


松本竣介の息子・莞氏、テレビのインダビューなどでたびたびそのお顔を拝見しました。建築家であり、大川美術館の改修を手がけたことで、大川美術館の建物内をくまなく歩き、見て回りました。細かいところにも目が届いたその手堅い手腕には、大いに感心しました。また莞氏の息子、つまり竣介の孫に当たる方も建築家だ聞きました。そんなこともあってか、年代は僕よりずっと上ですが、僕も建築家なので、莞氏にはひとかたならぬ親近感を抱いています。


展覧会の構成は、以下の通りです。


Ⅰ 前期 1927年~1941年頃

 Ⅰ-1 初期作品 1927-1933

 Ⅰ-2 都会:黒い線 1935-1936

 Ⅰ-3 郊外:蒼い面 1937-1941

 Ⅰ-4 街と人:モンタージュ 1936-1941

 Ⅰ-5 構図 1940-1941[-1948]

Ⅱ 後期:人物 1940年頃~1948年頃

 Ⅱ-1 自画像 [1938-]1940-1945

 Ⅱ-2 画家の像 1941-1943

 Ⅱ-3 女性像 1940-1946

 Ⅱ-4 顔習作 1941-1943

 Ⅱ-5 少年像 1941-1944

 Ⅱ-6 童画 1943-1948

Ⅲ 後期:風景 1940年頃~1947年

 Ⅲ-1 市街風景 1940-1942

 Ⅲ-2 建物 1941-1942

 Ⅲ-3 街路 1941-1943

 Ⅲ-4 運河 1941-1943

 Ⅲ-5 鉄橋付近 1943-1944

 Ⅲ-6 工場 1941-1947

 Ⅲ-7 Y市の橋 1942-1946

 Ⅲ-8 ニコライ堂 1941-1947

 Ⅲ-9 焼跡 1946-1947

Ⅳ 展開期 1946年~1948年

 Ⅳ-1 人物像:褐色に黒 1946-1948

 Ⅳ-2 新たな造形へ 1947-1948



Ⅰ 前期 1927年~1941年頃


1929年春、松本竣介は少年時代を過ごした盛岡より家族とともに生地・東京へ戻り、震災後の復興めざましい大都会の喧噪のなか、そこで多感な青年期を迎えることになった。中学入学を目前にして聴覚を失い、その頃より画家になることを目指し始めた竣介は、上京後すぐさま太平洋画会研究所に通い始め、制作や勉学に励むと同時に、様々な画友との出会いを重ねてゆくことになる。1935年秋には二科初入選を果たして画家としての地歩を固めるとともに、生涯の伴侶となる禎子との出会いを深めて翌年には結婚。新たな生活のなか、夫妻二人三脚でエッセイとデッサンの雑誌「雑記帳」を創刊し、活動の場をさらに拡げていった。本章では盛岡時代に描いた最初期作品から、竣介の画風が決定的な変化を見せ始める1940-41年頃までの作品を紹介する。それは奇しくも大戦開戦前夜という時代全体の大きな転換期でもあった。短いながらもその画歴においては「前期」とも呼びうるこの時期の作品群は、東京という大都会が醸し出す躍動感や新しい時代の感性をイメージの源泉としつつ、絵画の様式や技法について様々な実験を重ねていった、若き青年画家ならではのものであった。


Ⅰ-1 初期作品 1927-1933



Ⅰ-2 都会:黒い線 1935-1936



Ⅰ-3 郊外:蒼い面 1937-1941



Ⅰ-4 街と人:モンタージュ 1936-1941




Ⅰ-5 構図 1940-1941[-1948]


Ⅱ 後期:人物 1940年頃~1948年頃


1940年秋、松本竣介は東京の日動画廊で自選の個展を開いた。出品作は全30点とされており、わずか3日間ではあったものの、この規模としては初めての画期的個展となる。そこで竣介は自身の足跡を大きく振り返り、それを契機のひとつとして新たな絵画を模索してゆくことになった。本章ではこの個展以後に制作された人物画を、「後期:人物」という形でまとめて紹介する。自画像から婦人像や子どもの像まで、この時期を境にその画風は大きな変貌を遂げてゆく。それは単に様式や技法の変化というよりは、絵画の意味についての新たな問いかけ、あるいは画家としての自身の姿勢についての熟考を示唆するものであった。そのことがもっとも顕著に表れているのが、代表作「画家の像」や「立てる像」を中心とした一連の自省的作品群である。また、つましいながらも家庭を持ったひとりの靖年が社会人として成熟してゆく時期にもあたり、妻や愛息のイメージを原型としつつ、ルネサンス以降の西洋絵画の構図や描法をそこに重ねてもいる。しかし、「古典的」とも称されたこの時期の人物像は、やがて内的な律動とともに激しい筆致や荒々しい画質をもって再び抽象化してゆくことになる。


Ⅱ-1 自画像 [1938-]1940-1945



Ⅱ-2 画家の像 1941-1943


Ⅱ-3 女性像 1940-1946


Ⅱ-4 顔習作 1941-1943

Ⅱ-5 少年像 1941-1944



Ⅱ-6 童画 1943-1948


Ⅲ 後期:風景 1940年頃~1947年


1940-41年頃を境に大きくその画風を変化させた松本竣介は、人物のみならず、精力的に新たな風景を描き始めた。それらは街や人々の姿を都会の喧噪として描き出したかつての風景画とは対照的な、抑制された静謐な画面ばかりで、のちに「無音の風景」と称された作品群となる。本章では他界するまでのわずか8年ほどの間に描かれたそれらの作品を、「後期:風景」という形でまとめて紹介する。時代はまさに開戦前夜から敗戦へと連なる暗翳の日々であったが、俊輔自身にとっては思索や画想をじっくり練成してゆく時期ともなった。世界の一隅に住まう一生活者として、悲観や楽観に踊らされぬよう注意深く時代の情勢を見据えつつ、東京や横浜の各所を歩いてはスケッチを重ね、何の変哲もない街角や建物、橋梁や河岸や工場を写し、それらをもとに独自の風景画を職人的精神をもって丹念に描き重ねていった。同じ風景を様々な角度から写生したり、異なる画材や技法をもって素描し続けた果てに、一枚一枚の油彩画を生み出していったのである。そうした反復的制作態度は敗戦後まで続き、同じ場所を再訪して、無残にも姿を変えた風景を改めて描き直してもいる。


Ⅲ-1 市街風景 1940-1942



Ⅲ-2 建物 1941-1942



Ⅲ-3 街路 1941-1943



Ⅲ-4 運河 1941-1943



Ⅲ-5 鉄橋付近 1943-1944



Ⅲ-6 工場 1941-1947



Ⅲ-7 Y市の橋 1942-1946



Ⅲ-8 ニコライ堂 1941-1947



Ⅲ-9 焼跡 1946-1947



Ⅳ 展開期 1946年~1948年


空襲が激化するなか、1945年3月に家族を疎開させたのちも、松本竣介はあえて東京に残った。罹災の危機や物質窮乏の困難に直面する生活を余儀なくされ、敗戦後の混乱期もひきつづき、生活の糧を得るための仕事に忙殺され続けた。しかしそんな状況下にあっても竣介は、新たな文芸誌創刊の計画に奔走し、美術家組合の結成を呼びかけ、かつ絵を描き続けた。戦中からの主題を継続的に展開させた作品も多々あったが、1947年には親しい新人画会の画友とともに自由美術家協会の再建に参入し、それを機に新たな主題と画法による作品を発表、周囲を驚かせることとなった。それらは戦中、庭の土中に埋めておいたという褐色の絵具を地色にした独特の油彩画で、大胆な黒の線描をもって人体を抽象的に描き出したものだった。その後も建物や人物など古典的、装飾的なモチーフを選んでこの画風を発展させてゆく。本章ではこれらを「展開期」という位置づけをもって紹介する。再び大きな画風の変化を見せたものの、その展開の端緒にあって竣介は、36歳という若さで病没。俊輔自身をはじめ誰ひとり予期しなかったこの突然の死が、これらの新作を「差合い判年の遺作」と呼ばざるをえなくさせたのである。


Ⅳ-1 人物像:褐色に黒 1946-1948



Ⅳ-2 新たな造形へ 1947-1948



「生誕100年 松本竣介展」

そのとき画家は何を見つめていたのか

1912(明治45)年に東京で生まれた松本竣介(本名:佐藤俊介)は、少年時代を岩手で過ごし、13歳のときに病いのため聴力を失ったのち、画家を志すようになりました。1929年には上京し、舟越保武や麻生三郎ら同時代の芸術家たちと交流を重ね、ともに新時代の絵画、芸術、社会を求めて制作に励みました。1935(昭和10)年の秋には、第22回二科展で《建物》が初入選を果たし、画家としての地歩を固めます。またこの頃、松本禎子と結婚し、それを機に改姓して新たな生活をスタートさせ、同時に夫妻でエッセー(随筆)をテーマとした月刊誌『雑記帳』(全14号)を創刊。広く時代の思潮を見渡す経験を重ねてゆきました。竣介の画風は短期間にめまぐるしく変化しつづけています。黒い輪郭線による初期の骨太の描写から、青を基調とした曲面による幻想的風景、そして線描により描き出された合成的な都会の喧騒まで、前半生には独特の色彩と構成による想像的絵画を制作しつづけました。しかし、1940年あたりを境にその画風は一変。別人のごとき画家・竣介の後半生がここから始まります。一連の写実的自画像に発する内省的傾向は、代表作《画家の像》や《立てる像》へと発展し、同時に身近な人物や都会の一隅を実写した精緻な作品が多数描かれました。一連の《Y市の橋》などはその典型といえるでしょう。軍国化へと急傾斜していった時代を背景に、その画面は暗く謎めいた静寂をたたえているかにも見えますが、画家はここへ来ていよいよ、絵画に対する熱い想いを深めてゆきます。そして敗戦後、今度は粗い筆致による抽象的画面が、独特の赤褐色の地色とともに突如、登場しました。しかし、この第二の激変の端緒にあって竣介は、1948年、病いに倒れあえなく36歳の若さで夭逝してしまいました。本展は、昭和前期の日本近代洋画壇に重要な足跡を遺し、現在も尽きせぬ魅力を放ちつづけている画家・松本竣介の足跡を、生誕100年を機して大きく回顧する企画です。わずか20年ほどの短い画歴ではありましたが、遺された油彩や素描の数は多く、かつ驚くほど多彩な展開を見せています。新時代の絵画を求めて飽くなき探求を重ねたひとりの若き画家の人生を、本展では改めて、今日的な視点から見つめなおすことを目指しています。


「世田谷美術館」ホームページ


とんとん・にっき-haya4 「生誕100年 松本竣介展」図録

編集:

岩手県立美術館

神奈川県立近代美術館

宮城県美術館

島根県立美術館

世田谷美術館

NHKプラネット東北

NHKプロモーション

発行:

NHKプラネット東北

NHKプロモーション

©2012


とんとん・にっき-hon2 「松本竣介 線と言葉」
2012年6月8日初版第1刷発行

編者:コロナブックス編集部

発行所:株式会社平凡社




とんとん・にっき-hon1 「青い絵具の匂い―松本竣介と私」

中公文庫

1999年8月18日初版発行

2012年7月25日改版発行

著者:中野淳

発行所:中央公論新社





とんとん・にっき-sousei 「早世の天才画家 日本近代洋画の十二人」
中公新書1993

2009年4月25日発行

著者:酒井忠康

発行所:中央公論新社









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