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Bunkamuraザ・ミュージアムで「白隠展」を観た!

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Bunkamuraザ・ミュージアムで「白隠展 禅画に込めたメッセージ」を観てきました。観に行ったのは初日、小雨降る12月22日のことでした。


僕は、昔からなぜか達磨が好きでした。いつの頃からか、木彫りの達磨を集めるようにもなりました。自分ではこけし達磨と言ってますが、張り子の達磨ではなく、あくまでもこぶし大の木彫りのものです。

だるま・あれこれ
カルディのダルマ


達磨の絵、水墨画については、たぶん永青文庫で観たことにより、僕の中で一気に関心が高まりました。たぶん、今回出品されている「横向き半身達磨」や「大燈国師」を観た記憶があります。東京国立博物館で観た「雪舟展」、目玉は有名な「慧可断臂図」(斉年寺)でしたが、他に「達磨図」(出光美術館)がありました。


最近では松濤美術館の「素朴美の系譜」や、東京国立博物館の「妙心寺展」で白隠の作品を観ていました。

渋谷区立松濤美術館で「素朴美の系譜」展を観た!
東京国立博物館平成館で「妙心寺」展を観た!


また永青文庫の細川護立の孫、細川護煕の個展「市井の山居:細川護煕展」では、白隠の「横向き半身達磨」を油彩で描いてものが出ていました。
メゾンエルメスで「市井の山居:細川護煕展」を観た!


また、板橋区立美術館で観た「諸国畸人伝」では、駿河の国代表として白隠が6点も取り上げられていました。その6点とは、「大黒天鼠画賛」、「出山釈迦図」(大雄寺)、「蓮池観音図」、「すたすた坊主図」(早稲田大学會津八一記念博物館)、「眼一つ達磨図」、「壽布袋図」(開善寺)です。

板橋区立美術館で「諸国畸人伝」展を観た!

さて、白隠(貞享2(1685)~明和5(1768)年)とはどんな人なのでしょうか。たまたま手元にあった「諸国畸人伝」の図録から、白隠の紹介文を引用しておきます。


駿河(静岡県)原の長沢家に生まれます。名は慧鶴。15歳で同地の松蔭寺にて得度します。美濃(岐阜県)瑞雲寺、伊予松山(愛媛県)正宗寺、越後高田(新潟県)英巌寺、信州飯田(長野県)正受庵など、長らく諸国を行脚して参禅し、松蔭寺へ戻ります。一般への教化のために力を尽くし、多くの信者を集め、臨済宗中興の祖と称されました。教化布教の手段として、還暦を過ぎる頃から多数の禅画墨跡を描くようになります。達磨、観音、布袋などの祖師、神仏や、寓意画などを、気塊あふれる個性的な筆で描きました。「槐安国語」など、経典について漢文体で記した本格的な書を著す一方、「夜船閑話」など仮名交じり文で一般にも分かりやすく禅や健康法について解説するなど多くの著書を遺しました。隻手音声の考案を創出したことでも有名です。


以下、「白隠展 禅画に込めたメッセージ」で、気になった白隠の作品を幾つか取り上げて載せておきます。解説は図録によります。


「隻履達磨」龍獄寺(長野県)

異様なほど頭でっかちな達磨像です。左右の瞳の位置が大きくずれていて、目が合いそうで合わない。それが異様な迫力を生み出しています。縦2m近いこの大幅は、数ある達磨像の中でも、自画像的な要素がもっとも濃厚な作品です。片方の履(隻履)を持っているのはどういうわけか。達磨が没して3年後、宋雲という僧が西域に行く途中、達磨に出会います。見れば片方の履を持っています。天竺へ帰るところだという。そして、あなたの主君は亡くなってしまったと告げます。国に帰ると、主君は亡くなっていて、達磨の墓を開いてみたらお棺は空っぽで、片方の履だけがあったという。

「出山釈迦」自性寺大雅堂(大分県中津市)

達磨像ほどではないが、白隠はかなりの数の釈迦像を遺しています。そのほとんどは出山釈迦像です。悟りを開いた後に衆生に教えを説く落ちついた姿ではなく、苦行の果て、あばら骨が浮き、足の爪が伸び、髭ぼうぼうで山を下りてきた釈迦の姿に心を寄せます。一連の出山釈迦像は、達磨像に比べて若い容貌であり、白隠は自らの若き日の苦行をイメージしているのでしょう。



「蓮池観音」

この一幅は絹本に丹念に描かれた大幅です。観音は、白隠にとって特別な意識で描いた画題でした。画面右端の賛は、「菩薩が衆生を救わんとされる大願は、海よりも深いというではないか。それなのに、こういう俗塵を離れた別世界へやって来て骨休めしているとは」という意。白隠にとって、もっとも美しい表情を見せる母の肖像でもあります。浮遊するような蓮池の表現は、伊藤若冲の「動植綵絵」のうち、「蓮池遊魚図」に通じるという。



「地獄極楽変相図」清梵寺(静岡県)

清梵寺は松蔭寺の隣、地蔵の寺として有名です。この絵で注目されるのは、閻魔大王の左側に描かれたアーチ形の石橋です。石橋の上の人物群は、左から右へ「幼→老」の淳で描かれています。中世から「熊野曼荼羅」などに見られる「老の坂」です。ここに描かれているのは、白隠が「辺鄙以知吾」などの仮名法語で説くテーマです。過去積善の余得によって富貴の身に生まれた君主は、その栄耀に奢り、多くの美婦人をはべらせ、贅沢三昧の生活をしているが、その結果、民百姓を収奪し苦しめる。このような人たちは死後には必ず地獄に堕ちる、ということを絵画化したものです。図中に見える短冊形の枠は、地獄の場面の代を書き入れるためのものですが、左下方の「世間ノメカケモチ」以外は空白で未完です。



「半身達磨」萬壽寺(大分県)

白隠の代表作として、繰り返し紹介されてきた、最も有名な作品です。背景の深い黒。衣のあざやかな朱、顔面のほのかな朱。眼球、胸と、「直指人心、見性成佛」という賛文の白。鮮やかな色彩のコントラストは、他に例を見ない。縦2mに近い、渾身の力が漲った大幅です。「直指人心 見性成佛」とは「真っ直ぐに自分の心を見つめて、仏になろうとするのではなく、すでに仏であることを気づきなさい」の意。制作年代は明和4年(1767)、白隠83歳の制作とする説が有力です。

「横向き半身達磨」永青文庫

白隠ならではの、グラフィックなセンスが最も際立つ一作です。たっぷり擦った濃い墨で、一筆描きのように一気呵成に描かれたもの。賛は「どぶ見ても」。「どう見ても」の後に続く文言は、この絵を見るそれぞれが考えればよい。細川護煕はこの絵を油彩で描きました。



「半身達磨」

享保4年、白隠35歳の希少な最初期作です。顔貌を象る線はいかにも細く、薄く、神経質なもの。衣の線は磊落に引かれた周到に構想されたもので、晩年の諸作と比べれば、その差は歴然としています。賛は「真のダルマは、描くことも、詩に表すこともできぬ。素晴らしい鳳凰は鼠の腐ったハラワタなど見向きもせぬ(真のダルマは、言語や描画を超えているのだから)」という意味。いまだ自在な表現ができない若き白隠の自虐的な物言いです。悩める白隠の姿を伝える貴重な作です。

「達磨」清松寺(東京都)

迷える若き白隠42歳の真作。晩年の達磨像と比べると、まるで別人の作かと見えます。どこを見ているのか、なんとも卑屈な視線です。賛では、「焼き芋の残りを糊にして、紙の破れを繕うだけだ」という自虐的な文言が記されています。「因行格」から「果行格」へと移行する白隠の姿、真の民衆教化へと舵を切っていく姿を生々しく表した重要な作品です。



「達磨」定光寺(愛知県)

「臨済」定光寺(愛知県)

「雲門」定光寺(愛知県)

白隠は単独の達磨像だけではなく、臨済、雲門と組み合わせた三幅対をしばしば描いています。臨済は唐時代、8世紀の臨済宗の開祖。雲門は唐時代から五代、8~9世紀に中国禅の興隆に重要な役割を果たした祖師。臨済は達磨と同様にかっと眼を見開き、口も開けています。雲門は目を細め、口をへの字に結ぶのが常だが、本作の雲門は、にんまりと笑っているように見えます。臨済の賛は「この人はどうしてこんなに怒りっぽいのか」、雲門の賛は「この人はどうしてまじめくさって修行などしているのか」といった、非難めいたものです。祖師をけなし、禅の宗旨など無意味に奉ることなかれという、同門の僧侶に対する戒めなのでしょうか。



「大燈国師」永青文庫

かっと見開いた眼。何かを言いたげな半開きの口。ぼうぼうに伸びた頭髪と髭。白隠禅画の中でも、これほど苛烈な表情のものはない。後に大徳寺の開山となる大燈国師は、師である大應国師から印可を受けた後、20年にもわたって京の五条の橋の下で乞食に混じって暮らしていたが、後醍醐天皇がその噂を聞き、召し出そうとしました。瓜が好物だというので、役人に命じて瓜を並べさせると、乞食がたくさん集まってきて、役人が「足を使わずに来る者に与えよう」といったところ、「手を使わずに与えよ」と言った者がいました。禅問答です。それで大燈国師を見つけることができたという『逸話が残っています。今回永青文庫から2点の「大燈国師」の像が出ています。永青文庫の創立者・細川護立がことのほか愛したという。

「自画像」松蔭寺(静岡県)

白隠は71歳から83歳にかけての13年ほどの間に、自画像を10店ほど描いています。白隠以前の絵画史に、これだけまとまった数の自画像を描いた者はいない。本図には自賛の他に愛弟子東嶺円慈による細かな字の書き入れがあります。それによれば白隠71歳の宝暦5年(1755)に東嶺が妙心寺の第一座となったのを祝って自画像を二紙描き、一紙を東嶺に与えたが(後に消失)、本図は残りの一紙であり、白隠の没後に松蔭寺から発見されたものだという。本図は、嗣法の弟子に与えるために描かれた頂相であり、史上初めての自画像の頂相ということになります。



「すたすた坊主」早稲田大学會津八一記念博物館

すたすた坊主は願人坊主の一種で、商人などの代参りといって、家ごとに立ち寄って、面白おかしく口上を述べて、物乞いをして歩きました。白隠の時代に、街道などでよく見られた乞食芸で、布袋が道楽にふけって放蕩し、すたすた坊主に成り果てたところです。弥勒菩薩の分身たる布袋和尚、繁華街に出て法を説くのが道楽だが、道楽が過ぎて今やすたすた坊主になってまで、人々の福を願って代参しましょうというところ。



「布袋吹於福」法華寺(愛媛県)大洲市立博物館寄託

布袋が煙管を右手にし、深く吸い込んだ紫煙を吹き出しています。その煙は隣の軸に移って十六歳のお福になっています。タバコをすう布袋はあり得ない。この布袋は愛煙家であった白隠の化身なのです。漢文のさんの意味は、「中国浄土宗の開祖、善導大師が念仏を唱えると、阿弥陀さまになったそうだが、この布袋はタバコの煙から妙齢のお多福美人を吹き出すのだ。阿弥陀さまを吹き出すのは念仏の功徳だが、このお福さんを吹き出せるのは、いかなる功徳によるのか」というところです。お福の着物には梅鉢の模様と「寿」の紋があります。人々の「福寿」を願って、白隠布袋がせいいっぱい吹き出しているところです。



「お多福粉引歌」

白隠は団子鼻で頬の膨らんだお幅(お多福)さんをさまざまな図様に登場させています。慈愛に満ちたその姿は観音の化身であり、女性一般の象徴です。本図のお福は梅の花と寿の字をあしらった衣を着て、笑みを浮かべながら石臼を挽いています。傍らに煙草の道具と茶筅が置かれているので、抹茶を挽いているのでしょう。加味をかんざしや櫛で飾ったお福さんは、不遇な境遇にある女郎であるらしい。白隠はそうした恵まれない女性たちにも仏法を説こうとしていました。



「えびす・大黒・布袋」

「鍾馗」

「弁財天・福禄寿・寿老人」

中央で鍾馗が舞い、右には大黒、恵比寿、布袋が囃子方。左には弁財天、寿老人と福禄寿。白隠が描く鍾馗は、単なる魔除けではなく菩提心の権化です。賛に謡曲「鍾馗」の一節が書かれています。右の賛は「拍子方タ何レモ疎無、内チ最モ好キハ、場中ノ太鼓打」。左の賛は「毘沙殿、素面ノ鍾馗、見ル人先ヅ寒気卓ツ」とあります。鍾馗が福神狂言の「毘沙門」を演じているところであろうか。



「鍾馗鬼味噌」海禅寺(島根県)

魔を払う力を持つ鍾馗が、すり鉢に入れた4匹の鬼を、すりこぎですり潰しています。上部に「鬼みそばかりはむごとふてすりにくいものじゃ」とあり、子供の上には「鍾馗大臣のむすこ也。とヽ(父)さ鬼みそをちとなめて見度い」と記されています。画面はカラフルで印象は華やかですが、すりこぎの先が血に染まったむごたらしい場面です。すき潰された鬼は、邪念や煩悩の象徴だろうが、このショッキングな図に込められた白隠の問いかけは一筋縄ではいきません。



「金比羅山大権現」法林寺(静岡県)

「秋葉山大権現」法林寺(静岡県)

金比羅は日本では海上交通の守り神として信仰され、江戸時代後期には、四国の金比羅宮に詣でる金比羅参りが盛んになりました。秋葉山大権現は秋葉三尺坊、秋葉神社の祭神です。三尺坊は火伏せの神として祀られます。白隠は多くの場合、「秋葉台権現」と「金比羅大権現」を対幅で書いています。その理由は「いったい、書画掛物の類は、どんな名品をいくら掛け並べたところで、所詮は暫時俗眼を満足させるに過ぎず、ほんとうの利益はない。しかし、金比羅、秋葉の尊号は、表具して床の間に掛け、時々お香をたてて合掌して拝するならば、七難即滅、七幅即生、武運長久、御寿命も長く、お家中はもちろん天下泰平、御当家御代長久のためには、これほどの全校はない」と述べています。つまり白隠においてはこの二つの神号は、日歩瀬などという個別の利益を超えた、「七難即滅、七幅即生」、いっさいの福をもたらすという「お守り」の意味を持ち、修行のための究極の護法の守護神でした。

「百寿福禄寿」普賢寺(山口県)

異なる書体の百の「壽」という字を連ねた、いわゆる「百壽」を白隠は量産しています。そのほとんどは中央に「壽」と大書きし、その周りに百の書体を並べたものです。なかには白隠が捏造したのではないかというような、面白い書体もあります。本図では、通例の「百壽」の中央に書かれる「壽」の大字の代わりに、福禄寿は筆を持っている姿が描かれています。



「徳字」

いくら稼いで金を残しても、子孫は使ってしまう。いくら本を残しても読まぬ。それよりは、人知れず善行を行い、陰が徳を積むことだ。それが子孫繁栄の方策だぞ、ということが書いてあります。誰にでもわかる徳目だが、行う人は少ない。白隠は徳を「悳」と書きます。善行善心のこと、それが「直き心」です。

「隻手」久松真一記念館

「両手をたたけば音がするが、では片手の音はどうか。それを聞いてこい」という、白隠が創作した「隻手音声」の考案です。明治期の傑僧、中根南天棒が極め書きをしています。「隻手」の図はこれ一枚しか残ってないという。



「白隠展 禅画に込めたメッセージ」
江戸時代中期の禅僧であり、大量の書画を遺した白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685~1768)。500年に一人の英傑(えいけつ)として讃えられ、現在の臨済宗の僧侶たちの系譜をさかのぼれば、すべて白隠に行き着くほどの重要な存在です。白隠は80余年の生涯を民衆教化に捧げ、その手段として大量のユニークな書画を遺しましたが、それらは各地の寺院や個人コレクションを中心に散在しており、一般観客の目に触れる機会はこれまで稀でした。本展では40数カ所の所蔵者から大作を中心に約100点を厳選し、質、量ともに史上最高の白隠展となるでしょう。白隠が描いた画題は、釈迦や達磨、菩薩などの仏教的なものに留まらず、七福神やお福など庶民信仰にもとづくもの、また猿や鼠を擬人化したものなど、きわめて多岐にわたっています。時にはユーモアを込めて、またキャラクターに託して修行者や一般民衆へ向けて描かれた書画は、宗教という範疇や200余年という時空を飛び越えて、「真に伝えたいメッセージ」として21世紀を生きる私たちに届きます。多くは絵と言葉を対にした画賛形式で構成される白隠禅画を、白隠研究の第一人者である花園大学国際禅学研究所の芳澤勝弘教授の卓越した読み解きで、またこれまでほとんど語られてこなかった白隠の美術史上の意義を、明治学院大学の山下裕二教授の解説でわかりやすくお伝えします。


「Bunkamuraザ・ミュージアム」ホームページ


とんとん・にっき-hak1 「白隠展 禅画に込めたメッセージ」

展覧会図録

編集:

広瀬麻美(浅野研究所)

井上眞理子(花園大学国際禅学研究所)

富増健太郎(花園大学国際禅学研究所)

執筆:

芳沢勝弘(花園大学国際禅学研究所教授)

山下裕二(明治学院大学教授)

発行:

Bunkamura

浅野研究所




とんとん・にっき-hakuin
「白隠―禅画の世界」

中公新書1799

2005年5月25日発行

著者:芳澤勝弘

発行所:中央公論新社









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