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小島剛一著「トルコのもう一つの顔」を読んだ!

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小島剛一著「トルコのもう一つの顔」(中公新書:1991年2月25日初版、2012年3月5日11版)を読みました。


小島剛一の略歴は、以下の通り。

 1946年(昭和21年)、秋田県に生まれる。

 1978年、ストラスブール大学人文学部で博士号取得。

 現在はフランスで自由業。専攻、言語学と民俗学。

 論文「アルザスのメノナイト派宗団」

    「アナトリアにおけるトルコ語諸方言の音韻論研究」

    「トルコ共和国の諸言語」

    「ザザ語とザザ人」

 著書「漂流するトルコ 続『トルコのもう一つの顔』」(旅行人、2010年)


本のカバー裏には、以下のようにあります。

言語学者である著者はトルコ共和国を1970年に訪れて以来、その地の人々と諸言語の魅力にとりつかれ、10数年にわたり1年の半分をトルコでの野外調査に費やす日々が続いた。調査中に見舞われた災難に、進んで救いの手をさしのべ、言語や歌を教えてくれた村人たち。辺境にあって歳月を超えてひそやかに生き続ける「言葉」とその守り手への愛をこめて綴る、とかく情報不足になりがちなトルコという国での得難い体験の記録である。


2012年10月21日(日)から30日(火)まで10日間、ヨーロッパとアジアの接する国「トルコ」を旅してきました。トルコ共和国のほぼ1/3、約3000kmバスの旅でした。なんと言っても異文化を体験できるのが楽しみの一つ。「イスタンブール歴史地区」などの世界遺産を巡ることや、あの巨岩がそそり立つ「カッパドキア」も楽しみです、と興味本位で何の考えもなく観光目的で旅立ったのでした。実は行く前に、トルコの東南部にシリアから爆弾が投下されたというニュースがあり、トルコとシリアは緊迫した不穏な情勢でした。


帰ってから、トルコに関する何かいい本がないかとネットで探したところ、なぜかこの本に行き当たりました。1991年に初版発行で、2012年には11版と版を重ねています。ロングセラーです。著者のことも、本の内容も全く知りませんでした。1890年(明治23年)に、和歌山県の串本沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本人が親身になって世話をしたとか、トルコを痛めつけていたロシアに日露戦争で勝利したとかで、なんとなく親日国とされています。世界三大料理は、中華料理、フランス料理、トルコ料理を指す、といわれています。しかし、日本人がトルコのことをあまり知らないように、トルコの人々も実際には日本のことを知らないのが実情です。


この本を読んでみて、その後変わった箇所もあるかとは思いますが、トルコ共和国の知らない別の側面がみられて、読み進むにつれて驚きの連続でした。著者はトルコの魅力に取りつかれ、当初はトルコ語を、そして次第にトルコ国内の少数民族語を研究するようになります。トルコの少数民族は10や20ではなく、なかには異民族であることをひた隠しにしている「隠れ民族」さえもありました。外国語を介せずにトルコ国民との意思の疎通ができるように、まずトルコ語を習い覚えます。


やがて各地の方言を研究する過程で、トルコ語とは無関係な別言語を話す少数民族の存在に気づき、その言語にも惹かれます。トルコの自然と人に魅せられて、フランスに住み続けたまま毎年数回トルコを訪れ、年間通算5、6ヶ月も滞在するようになります。ある日気づいてみれば17年という年月が経っていて、この間に目にし、耳にしたさまざまの印象深い風景を記したのが本書である、と著者は語っています。


第1次世界大戦でオスマン・トルコ帝国は、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国と同盟して敗れます。1920年のセヴール条約で当時の版図の半ば以上を失うことになり、都のイスタンブルは米軍、英軍、仏軍、イタリア軍、ギリシャ軍に分割占領されます。これを不服とし、屈辱と感じて反乱を起こしたのがムスタファ・ケマル、のちのケマル・アタテュルク(トルコの父)、率いるトルコ解放軍でした。戦いは解放軍の勝利に終わり、1922年に共和制を敷き、国号もトルコと変えて民族国家の様相を整えるが、トルコ語が書記言語として成立したのはこれよりも後のことでした。


アラブ文字を用いるオスマンル語にかわって、ラテン文字を採用したトルコ語が共和国の公用語になったのだが、もともと多種多様な民族が混在していたところに、住民の言語とは無関係に、軍人や政治家が戦争の結果として引いた国境であるため、旧オスマン・トルコ帝国内の言語集団がほとんどトルコ共和国内に取り込まれてしまいました。こうしたわけで現代のトルコは、あたかも寄木細工かモザイク模様のように、様々な言語が大小の、飛び飛びの、語域を成して集まっています。


トルコ共和国はギリシャ、ブルガリアとの間に住民交換を行い、ギリシャ人約135万人がトルコからギリシャへ、トルコ人約43万人がギリシャからトルコへ移住を余儀なくされます。また、オスマン・トルコ帝国領のうちクルド人が多数を占めていた地域は、トルコ共和国、仏領シリア、英領メソポタミア(のちのイラク王国、1958年以降共和制)に分割されました。解放軍の総司令官ムスタファ・ケマルの夢は、民族国家としてのトルコ共和国を西欧型の近代国家にすることでした。


そうして多民族であるトルコ人でありながら、現在に至るまで歴代トルコ政府が「トルコ共和国国民はすべてトルコ民族である」と定義し、少数民族強制同化政策を続けている、と著者はいいます。著者がトルコ中の村々を歩き回って調べたところ、トルコには、トルコ語を母言語とするトルコ民族の他に、少なくとも70以上の少数民族がいて、それぞれの言語を話していることがわかったという。一方では、母言語はトルコ語になってしまったが、「自分たちはあくまでトルコ人ではなく○○人」であるという意識だけは保っている人々もあり、言語どうかが民族どうかにつながらないことも際立っているとしています。


トルコ政府がどうして国内の少数言語、少数民族の存在をひた隠しにし、否定しようとするのか、著者はまったく理解できないとしながらも、そのことを知った上であえて少数民族の言語を研究調査の対象に選んだ以上、トルコに出入りしながらなんらの疑惑を受けないで自由に行動できるような看板を立てること。毎年何ヶ月も外国旅行ができるのは大富豪に限るというトルコ国民の常識の中で、それは「トルコが大好きで考古学に興味があり、毎年時間の許す限りトルコ土休暇を過ごす、あまり金持ちでない外国人旅行者で、何度も来ているうちにトルコ語も話せるようになった」というものでした。


監視人付きの地方の調査は、郡司や警察署長、観光局、の手続き、等々、まるで共産圏のようで、しかもなかなかスリリングです。時には独立煽動者や共産主義者にされたりもします。真の興味が少数民族語の研究(トルコでは「極左」の政治活動としか考えられない)になることなどはおくびにも出さずに、著者は平然とトルコの村々を歩き回り、着々と成果をあげることになります。「あなたはフランスなどに住む必要なはい。アンカラH大学の教授になるべきだ」と誘われもしたが、トルコ政府から危険分子と見なされ、事実上の国外退去命令が下ることになります。



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