大田区立郷土博物館で「馬込時代の川瀬巴水」展を観てきました。観に行ったのは12月7日。副題には「馬込生活は一番面白い時代でもあった」とあります。川瀬巴水については、東京国立博物館や千葉市美術館で、ちょっと見かけた記憶はありますが、僕はほとんど何も知りません。ということで、少し調べながら書いています。版画家としての作品が、日本より海外で評価が高いと言われているようです。
川瀬巴水は、明治16年、東京芝の生まれ、現在の港区新橋にあたります。幼児より画家を志しますが、周囲に反対にあい、家業の糸屋を手伝いながら絵画を学びます。画業に専念できるようになるのは25歳の頃、妹婿に家督を譲ってからでした。27才(1909年)の時に鏑木清方に入門し日本画を学び「巴水」の雅号を受けます。同門の伊東深水が発表した連作版画「近江八景」を見て感動します。
版元・渡辺庄三郎の強力な勧めもあって風景版画に着手し、木版画の絵師として活躍するようになります。巴水は題材に日本の風景を選び、そこに暮らす人々の様子を詩情溢れる版画に表現しました。伝統的制作方法に新しい時代の感覚を加えた巴水の版画は、「新版画」と呼ばれました。
生涯に600点を超える版画作品を制作したと言われます。その版画制作活動39年のうち、31年を大田区内で制作しました。巴水は、昭和5年から19年までを過ごした南馬込での生活を「さほど豊かではなかったが、一番面白い時代でもあった」と語ったという。今回の展覧会の副題は、もちろん、ここから来ています。来年(平成25年)は「川瀬巴水生誕130年」に当たるそうです。今回の展覧会は、これを記念して馬込時代の作品を中心に展示されています。
今回、巴水の作品がより身近に感じたのは、僕が見たことがある場所、行ったことがある場所が多く取り上げられていたからです。月嶌や大森海岸、二重橋や池上本門寺、清洲橋や永代橋、芝大門や日本橋、等々へは行ったこともあり、よく知っています。韓国旅行で行ったことのある「水原華城」が何点か出ていたのには驚き、感動しました。版画の摺りについては、「二重橋の朝」と「清洲橋」を例にとり、初摺(初期摺)と「決定版」が並べて展示してありました。
僕が展覧会へ行った時、地元のお年寄りのグループが来ていました。「森ヶ崎」が話題に上っていました。僕は始めて聞く地名でしたが・・・。「海苔養殖に係わる漁村の風景を描いた作品」として、「昇る月(森ヶ崎)」と「森ヶ崎乃夕陽」が出ていました。川岸には海苔舟が係留されています。誰の眼にも気がつくことは、夜景や雪景色が多いこと、しかも素晴らしいことです。チラシになった「馬込の月」や「池上本門寺」は傑作中の傑作です。
ちょっと他と違った印象の、写実的で色鮮やかな作品「ダリア」もありました。歌舞伎の舞台制作として「かさね」と「ひらかな盛衰記 先陣問答」が出ていました。下の写真は、巴水の朝鮮旅行の帰りを迎えに行った梅代夫人との関西旅行で立ち寄って奈良で撮影されたもの。夫婦二人だけの写真は珍しいという。
昭和5年、「東京二十景」の完成
池上本門寺
海苔養殖に係わる漁村の風景を描いた作品
鉄道省国際観光局宣伝ポスター
「新東京百景」
朝鮮旅行と「朝鮮八景」「続朝鮮風景」
日本橋・植物
「馬込生活は一番面白い時代でもあった 馬込時代の川瀬巴水」
川瀬巴水(かわせはすい)は、明治16(1883)年、現港区新橋に生まれました。43年、鏑木清方に入門し、大正7(1918)年、同門の伊東深水(注:大田区立池上梅園は深水の住居、アトリエ跡です)による連作版画「近江八景」を見て感激し、版画制作の道に入ります。以後、版元渡邊庄三郎(現渡邊木版美術画舗初代店主)の下で木版画の絵師として活躍するようになります。巴水は、大正15(1926)年、現大田区中央四丁目に引っ越しますが、これ以降、戦中、栃木県塩原に疎開した以外は、昭和32(1957)年に現大田区上池台二丁目で亡くなるまで、大田区内で過ごしました。巴水は生涯に約700点の版画作品を遺しましたが、その版画制作活動39年の内31年を大田区内で展開したことになります。巴水は、その生涯を振返り、昭和5年から19年までを過ごした現大田区南馬込三丁目に建てた洋館づくりの家での生活を「さほど豊かではなかったが、一番面白い時代でもあった」と述べています。この時代は、すでに、木版画絵師として、日本のみならず世界的な名声を確立し、次々と作品を制作していました。来年(平成25年)5月18日は「川瀬巴水生誕130年」に当たりますが、これを記念して、当館では、馬込時代の作品約100点を展示します。最盛期を迎えた巴水の版画芸術をお楽しみください。
リーフレット
平成24年12月1日発行
制作・発行:大田区立郷土博物館