「大人の休日倶楽部会員パス」を利用して、3泊4日の旅に出たのが、6月17日、次の日、18日に小布施へ行きました。小布施に滞在したのはたった1日、それも実質はほとんど半日の滞在でした。僕は小布施には、20年前に一度行っています。それもあるのですが、でもあちこち観て回りましたよ。
なぜ小布施に北斎館ができたのか?北斎と小布施はどのような関係なのか?それらについて書くのなら、本来なら「高井鴻山記念館」から書かなければいけません。が、ついに最後になってしまいました。いただいたリーフレットには、以下のようにあります。
高井鴻山(1806-1883)は、幕末維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ、陽明学の教え知行合一の精神で“国利民福”の信条を貫いた人です。15歳から16年間、京都や江戸への遊学で、各界第一人者から多彩な学問や芸術を修め、自由で幅広い人脈を築いた鴻山は、父の死により高井家の当主となってからも、学問思想に情熱を傾け、佐久間象山をはじめ当時の日本史を彩った思想家や文人たちとの交流において、鴻山もまた日本の行く末を憂い、巨万の財力を惜しみなく使い幕末の変革にかかわったのである。
高井鴻山記念館
鴻山の書斎「翛然楼」
この建物は、鴻山の祖父作左衛門(1753-1826)の時代に建てられたものといわれ、鴻山はこれを「翛然楼(ゆうぜんろう)」と名づけて書斎として使用していた。「翛然」とは、「物事にとらわれず思いのままに進退する」という意味がある。中国明時代の文人、陳文燭の書斎「翛然亭」にあやかって名づけられたものと推察される。鴻山はここで、書画や読書に専念し、あるいは葛飾北斎をはじめ、訪れてくる文人墨客と語り合い、また佐久間象山ら幕末の志士たちと国家を論にたのである。
北斎の画室「碧漪軒」
北斎はここ高井邸で毎日日課として獅子を描いて欠かすことがなかった。これが「日新除魔」である。そしてこの絵が終わらなければ、来客があっても接見しなかったという。また鴻山は漢法蘭法医薬にくわしい知識をもっていたので、邸内に薬草園をもっていた。北斎はそれ等を写生し、また子どもたちの訪れるのを喜んで、虫などをとってくると妖怪の絵を与えたり、凧を作ってやったりして、自適迫らざる生活を送っていたと言われる。鴻山も書斎冬の間とも言い吊天井で、北の雨戸は折戸ですぐ開くように設計されていた。
小布施の町並み
小布施町並修景計画
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