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古田亮の「高橋由一――日本画の父」を読んだ!

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とんとん・にっき-yuiti


古田亮の「高橋由一――日本画の父」(中公新書:2012年4月25日発行)を読みました。中公新書の案内には(カバー裏にも、帯の裏側にも)、「日本には洋画が必要である」と銘打って、以下のようにあります


代表作《鮭》《花魁》が歴史や美術の教科書に掲載されている高橋由一。彼は幕末から明治にかけて日本洋画界の礎を築いた、日本で最初の“本格的な洋画家”である。晩年、黒田清輝によって洋画界の勢力図は塗り替えられ、一時は忘れられた存在となった。だが、清輝登場の転換点を含め、由一の人生は洋画揺籃期の重要な局面とことごとくリンクしている。由一の事績を今日的視点で見直し、近代絵画史のうねりを活写する。


「吊された新巻鮭を、あるがままに描いた「鮭」という油絵。作者は本書の主人公、幕末から明治を生きた高橋由一という画家である。国の重要文化財に指定され、歴史や美術の教科書で取り上げてきたことから、どこかで見た覚えがあるという読者も少なくないであろう」と、「はじめに」の始めに書かれています。つづけて「この作品が描かれたのは、明治維新から10年ほど経った頃のこと。洋画という言葉がようやく知られ始めたこの時代に、高橋由一は西洋の油絵技術を日本の歴史上はじめて本格的に学び、多くの油絵作品を描いて注目された」とあります。


この本はどうして書かれたのか?著者は次のように言う。本書は、東京藝述大学大学美術館、山形美術館、京都国立近代美術館にて開催の「近代洋画の開拓者 高橋由一」展にあわせて出版が企画された、と「おわりに」に書かれています。今回の展覧会に限らず、由一の作品をご覧になる方々にとって、本書が作品を鑑賞するガイドになれば幸いである、と付け足しています。


著者は、「本書の狙いは、高橋由一の生涯を客観的な資料によって描き出すことにある」とし、「全体の構成は、生まれてから死ぬまでの生涯を年譜的にたどるのではなく、画家にとって重要なトピックを章ごとに取り上げている」とあります。序章「晩年の洋画沿革展覧会―1893年」からはじまり、1章から12章、そして終章「高橋由一の死後」まで、14のトピックからなっています。やはり圧巻は、第3話「ワーグマンに入門の事」の項です。イギリス人画家ワーグマンのところへ由一が弟子として入門したのは簡単ではなかったようです。



去年のこと、2011年6月から7月にかけて、神奈川県立歴史博物館でチャールズ・ワーグマン来日150周年記念「ワーグマンが見た海―洋の東西を結んだ画家」展が開催され、僕は始めてワーグマンと高橋由一との関係を知りました。由一の油絵は、藝大美術館所蔵品選「コレクションの誕生、成長、変容」展(2009年7月~8月)で「鮭」や「根津権現」を観ました。また、神奈川県立近代美術館「ザ・ベスト・コレクション 近代の洋画」では、図録のトップに載っていますが、「墨水桜花輝耀の景」や「江の島図」を観ました。


チャールズ・ワーグマンは、1832年にロンドンで生まれました。由一より4歳年下でした。イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ社に入り、特派員の記者兼画家として中国に派遣されたのは57年、25歳の時でした。中国では香港、広東を中心に取材をして現地のスケッチを本国に送る仕事をしていました。文久元年、香港、台湾経由で長崎に来日、4月、駐日英公使オールコックに随行して長崎を出発し、5月27日に江戸に着きました。


過激な攘夷行動が頻発していた時代、外国人にとってこれほど危険な国はなかったはずですが、日本人の生活に対する観察眼の鋭さを発揮し、また日本の生活にも自ら溶け込んでいきました。文久3年には小澤カネと結婚し、すぐに一郎という名の長男をもうけます。結局日本には30年にわたって住むことになりました。


弟子の一人だった日本画家の荒木寛畝によれば、ワーグマンは「奇体な奴」だったという。弟子を取ることを嫌がり、規則というものが大嫌いで、時計が嫌い、約束が嫌い。門人お断り、教えることなどまっぴら御免だったようです。それは一面からの観方ということです。ワーグマンの元に通うようになった由一ですが、鉄道のない当時、自宅の江戸藩邸からは徒歩で横浜まで通ったという。ワーグマンのもとには多くの日本人画家が集まってきていました。なかでも最も重要な弟子は五姓田義松で、由一から見れば義松は27歳年下、しかしワーグマンへの入門は由一よりも1年早いので、兄弟子ということになります。


「由一が理屈によって西洋画に戦いを挑んだ努力型とするならば、義松は生まれながらの感性によって西洋画を受け入れることのできた天才型の画家である」と、著者は比較しています。


僕は2008年9月に神奈川県立歴史博物館で「五姓田のすべて 近代絵画の架け橋」を観る機会がありました。「五姓田派」の画家は、歌川国芳に学んだ初代五姓田芳柳が始まりで、外人相手に「横浜絵」を描いていました。芳柳の次男、五姓田義松は、イギリス人画家ワーグマンに本格的な油絵を学び、その後パリへ留学、そこで描いたのは「西洋婦人像」です。「女性が絵を描くのが困難な時代」、義松の妹・渡辺幽香の「幼児図」はあまりにも迫力があって驚きました。初代芳柳に学んだ山本芳翠もパリに学び、義松を超える「婦人像」を描いています。



第11話「美術館の夢」では、由一の構想したユニークな「螺旋展画閣略図稿」が載せられています。入口から螺旋状にぐるぐると回りながら上に昇っていく構造で、昇っていきながら壁にかけられた油絵を鑑賞していく仕組みの美術館です。これはまるで会津若松の二重螺旋「さざえ堂」です。また、レオナルド・ダ・ヴィンチが計画した二重螺旋「シャンボール城」んの階段室です。また二重螺旋ではないが、美術館としてはニューヨークのグッケンハイム美術館がそうです。


由一が洋画拡張事業のために生涯にわたって書きつづけた嘆願書の山、事業の一端として明治16年から明治27年までの間に25の企画や嘆願が掲載されています。レオナルド・ダ・ヴィンチも各地の領主に「私はこんなことができます」と、「企画書」あるいは「嘆願書」を出し続けたという。由一の戦略は天皇、総理大臣を始め行政のトップに直接訴えかける場合と、会を設立して資金を募る方法とがあった、という。夢の残骸が列挙できる、ということは、由一が自ら作成した長文の嘆願書を手元に残しておくために、すべて筆写していたということだと、筆者はいいます。


いま、藝大美術館で開催されている「近代洋画の開拓者 高橋由一」には、代表作の「鮭」が3点、展示されています。「藝大所蔵」のものの他に「笠間日動美術館所蔵」と「山形美術館寄託」のものです。高橋由一の没後、明治32年(1899)に息子の源吉が会主として開催した「高橋由一翁追善展覧会」以後、65年もの間、由一の作品を集めた「回顧展」は開催されなかったという。継承者の不在が大きな理由でしたが、明治26年に黒田清輝がフランスから帰国した後、黒田以前の洋画は旧派、あるいは脂派と呼ばれ、洋画界の勢力地図は塗り替えられてしまいました。


それから長い間、日本の近代洋画は黒田に始まるという歴史記述が定説と見なされるようになりました。黒田以前、つまり由一たちの時代の洋画は、江戸時代から続く「洋風画」という一段低いみなされ方をしたのでした。しかし、昭和39年、神奈川県立近代美術館で開催された「回顧展」を契機に、由一の画業を見直そうという気運が高まり、さらに昭和46年に「高橋由一とその時代」展を神奈川県立近代美術館で開催、翌年には「高橋由一画集」が刊行されました。この時期に「鮭」と「花魁」が重要文化財に指定されました。これらの一連の再評価には美術評論家の土方定一がいた、と著者はいいます。


それから40年、歴史が由一を葬り去らなかった理由は、一つは由一地震が自らの洋画拡張事業を記録し整理して伝えたこと、そしてもう一つは由一の描いた作品が時代を超えて生きつづけていることだ、古田亮はいう。


古田亮:略歴

1964年東京都生まれ。93年東京国立博物館研究員。98年東京国立近代美術館(2001年より主任研究官)を経て、06年に東京藝術大学美術館助教授に就任、現在准教授。専門は近代日本美術史。04年「琳派RINPA」展、06年「揺らぐ近代」展、07年「横山大観」展など多くの企画展を担当する。著書に「狩野芳崖・高橋由一」(ミネルヴァ書房、2006年)、「俵屋宗達」(平凡社新書、2010年第32回サントリー学芸賞)ほか。


とんとん・にっき-yuiti 「近代洋画の開拓者 高橋由一」

東京藝術大学大学美術館

2012年4月28日(土)~6月24日(日)













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