宮本輝の「幻の光」(新潮文庫:令和3年3月10日67刷)を読みました。
この本を知ったのは、先日、リバイバル上映の映画を観たことによります。
宮本輝原作、是枝裕和初監督作品、江角マキコデビュー作品「幻の光」を観た!
以下、宮本輝「幻の光」より抜粋。
きのう、わたしは三十二歳になりました。兵庫県の尼崎から、この奥能登の曽々木という海辺の町に嫁いできて丸三年がすぎたから、あんたと死に別れて、かれこれ七年にもなるんです。
こんな日は滅多にないのやから、お蒲団とか座布団も干さなあかんし、ほかにもうんと用事がある筈やのに、きまって体がだるうなって何をする気もおこらへん。雨あがりの線路の上を、背を丸めて歩いていくあんたのうしろ姿が、振り払うても振り払うても心の隅から浮かんでくるのや。雄一をつれて、この関口民雄の家に嫁いできて一年がたち二年がたっても、わたしは、あんたが死んだあの日から知らず知らずにつづけてきた心の中でのひとりごとを、どうしてもやめることがでけへんかった。
新しい夫と、なんとか平和に暮らしていながら、死んでしもた前の亭主に、こうやってせっせと話しかけている自分を気色悪い女やと思うこともあります。そやけどそれも習慣みたいになってしまうと、いつのまにか死んだあんたにではなく、かというて自分の心にでもない、もっと得体の知れん近しい懐かしいものに話をしているように感じて、うっとりとしてしまうときがあります。その近しい懐かしいものがいったい何なのか、それもこれも、みんなわたしには判らへんことばっかりや。あんたはあ、なんであの晩、轢かれることを承知のうえで、阪神電車の線路の上をとぼとぼ歩いていたんやろか…。
あのとき、よくも気が狂えへんかったことやと、わたしはあんたが死んでからの数日間を思い出すたびに考えてしまいます。狐につままれてるような、誰かに寄ってたかって騙されてるような、そんな呆けたみたいになっている心の奥に、泣くこともわめくこともでけへんまま、ひたすら真っ暗な地の底に沈みつづけているもうひとつの心があった。横で泣いている勇一をほったらかしにして、ぼんやり畳を見つめている様子が心配になってきたのか、管理人さん夫婦が、四六時中、わたしを見張ってくれるようになった。亭主のあとを追ってガス管でもくわえへんか案じてるのやなァと、わたしは他人ごとのような考えてました。そのときのわたしは、勇一をつれて死んでしまおうと思てたんやない、というて、これからどうやって生きていこうと考えてたんでもない。わたしの心の奥の、もうひとつの心に、雨あがりの線路の上をとぼとぼ歩いてるあんたのうしろ姿が、もうまざまざと映りつづけるのでした。水色のワイシャツの上に灰色のブレザーを着て、ちょっと背を屈めた独特の格好で、ひとり黙々と夜ふけの線路を歩いているあんたのあとを追いながら、わたしは一所懸命、その心のうちを知ろうとやっきになっていました。
生まれ育った尼崎の街を、わたしはホームの雑踏にもまれてしばらく眺めていました。なんで、能登の最北端の、さびれた漁村に嫁いでいく気になったのか、わたしはそのとき自分の気持ちがはっきり判ったのやった。能登から八歳になる娘を連れたわざわざ見合いのために尼崎までやって来た、関口民雄という三十五歳の男に心魅かれたのやない、公害の煙とサウナやキャバレーのネオンが、貧乏くさいアパートを囲んでいる尼崎という街にいや気がさしたのでもない、ラブホテルでの、まだ生くさい香りが残っているシーツの敷き直しを苦痛に思たのでもない。わたしは、あんたという人間にまつわる風景から、音から、匂いから、逃げていきたかったのでした。
霧雨は、強い風で真横に降ってきた。列車の中は暖房がきいていて、熱いくらいやったから輪島駅に降りたときは思わず震えがきたほどでした。四月やいうのに冬みたいな冷たさで、わたしは、ああ、えらいとこに来てしもたなァと、まだうつらうつらしている勇一を抱いたまま、足どりも重く改札口を通っていった。迎えにきてくれてる筈の民雄さんの姿は見えませんでした。わたしは、やっぱり帰ろうと思いました。自分はどうかしてたんや、きっと気でもふれてたんや。そやからこの遠い能登の奥にまで、やってくる気になったんやと、どこかぴいんと緊張している心のうちで考えてました。
五分ほどたったとき、民雄さんと娘の友子ちゃんが、駅に駆け込んできた。関西からの団体客があって、その料理を仕込むのに時間がかかったと民雄さんは申し訳なさそうに言いはった。お父さんにぽんと背中を突かれて、あらかじめ打ち合わせをしてあったらしく、八歳の友子ちゃんは、「来てくれて、ありがとう」と頭をさげた。
日本海からもろに吹きつけてくる強風が、雨戸のかすかなすきまを通り抜けて、笛みたいに鳴りつづけてるのを、わたしは息を殺して聞き入ってた。そのうち、波の寄せ返しが、常に一定の間隔ではないことに気づきました。そのつど強弱も違うし、うねりかたも違う。ああ、風のせいなんやなあ、これで冬になったらどんな風が吹くんやろ、そう思いながら目を閉じて、うとうとしかけたとき、民雄さんの掌が入ってきた。
わたしは雨戸が、がたっと音をたてるたびに、目をあけて天上の豆電球見つめた。いったい人間の心とは何やろ。蒲団や枕の、自分のものでない匂いに、いつまでもなじまんまま、わたしは何度もそうしてきた相手を受け入れるように、自然に体を動かしていました。そのときだけ、死んだあんたも、あんたのうしろ姿も頭の中にたたみ込んで、ごうごうとうねってる風と波のただ中で、うっすら汗をかきつづけてるのでした。
ほれ、また光りだした。風とお日さんの混ざり具合で、突然あんなふうに海の一角が光り始めるんや。ひょとしたらあんたも、あの夜レールの彼方に、あれとよく似た光を見てたのかも知れへん。
じっと視線を注いでると、さざ波の光と一緒に、ここちよい音まで聞こえてくる気がします。もうそこだけ海ではない、この世のものではない優しい平穏な一角のように思えて、ふらふらと歩み寄って行きとうなる。そやけど、荒れ狂う曽々木の海の本性を一度でも見たことのある人は、そのさざ波が、暗い冷たい深海の入口であることに気づいて、我に返るに違いありません。
ああ、やっぱりこうやってあんたと話し込んでると気持ちがええ。話し始めると、ときおり体のどこかに、きゅうんと熱っぽい痛みが湧いてきて、気持ちがええのです。