吉田修一の「湖の女たち」(新潮文庫:令和5年8月1日発行)を読みました。
そこは、憎悪が沈殿する場所。
100歳の寝たきり老人が殺された。一体だれが、何のために?
湖畔の介護施設で暮らす寝たきりの男性が殺された。捜査にあたっった啓二は施設で働く女性と出会い、二人はいつしかインモラルな関係に溺れていく。一方、事件を取材する記者は死亡男性がかつて旧・満州で人体実験にかかわっていたことを突き止めるが、なぜか取材の中止を命じられる。吸い寄せられるように湖に集まる男たち、女たち、そして――。読後、圧倒的な結末に言葉を失う極限の黙示録。
犯罪とまで言えない咎で他人を吊るし上げるのも結構だが、インモラルな行為に埋没できる者たちだからこそ手にできる生の充実だってあるはずだ。二人から放たれる生命のつややかさはどうだ。そして佳代の幻視を描写する、著者の生き生きとした書きっぷりは。性愛に没頭する姿というものは、本来的に他者から見れば浅ましく滑稽なものだ。しかし自滅的で愚かであるからこそ底光りする生だって在り得るし、唾棄されようと少なくともそこには世間への忖度や、偽善の薄汚さない。
著者はどこまで純粋で純粋で在れるのかの彼岸を求めるような二人を通し、合理性では説明しきれない人間の業を認め、描いていくんだという決意を深めていたのかもしれない。堕ちきった果てに、性愛の昏がりから立ち上がるそれぞれの姿に切なる望みを託している。
――諏訪敦(画家、解説より)
泣くだけ泣くと、子供のころ、祖母が話してくれた昔話が蘇った。有名な話もあれば、祖母の創作みたいな話もあったが、なかでも未だに鮮明に覚えているのは天狗の話だ。
あるとき、村の少女が神かくしに遭う。村人たちが必死に捜索するも少女は見つからない。そのころ、少女は森の中で目を覚ます。すでにとっぷりと日の暮れた森の中、少女は、走る誰かの腕に抱えられている。とても太い腕で、包み込まれるように柔らかい。しかし、暗くてその顔は見えない。「あんたは誰?」少女が尋ねると、ふと動きが止まった。「わしは天狗じゃ」そう言って、また森の中を走り出す。
――「湖の女たち」本文より
吉田修一:
長崎県生まれ。法政大学卒業。1997(平成9)年「最後の息子」で文學界新人賞。2002年「パレード」で山本周五郎賞、同年発表の「パーク・ライフ」で芥川賞、07年「悪人」で大佛次郎賞、毎日出版文化賞を、10年「横道世之介」で柴田錬三郎賞、19年「国宝」で芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞を受賞。ほなに「東京湾景」「長崎乱楽阪」「7月24日通り」「女たちは二度遊ぶ」「さよなら渓谷」「元職員」「句アンセルされた街の案内」「平成猿蟹合戦図」「太陽は動かない」「愛に乱暴」「怒り」「犯罪小説集」「湖の女たち」「永遠と横道世之介」など著書多数。16年より芥川賞選考委員を務める。
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