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田中慎弥の「犬と鴉」を読んだ!

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田中慎弥の「犬と鴉」(講談社文庫:2013年1月16日第1刷発行)を読みました。理解するのに時間がかかった、というか、理解するのが困難だった、というか、難しい小説でした。

 

空から落とされた無数の黒い犬が戦争を終わらせた。悲しみによって空腹を満たすため、私は図書館に篭る父親の元へ通い続ける。歪んだ家族の呪われた絆を描く力作 (『犬と鴉』)。家業を継がず一冊の本に拘泥するのはなぜか、父と息子が抱く譲れない思い(『血脈』)。定職を持たず母と二人で暮らす三十男、古びた聖書が無為な日々を狂わせる(『聖書の煙草』)。

 

巻末の解説で平野啓一郎は、以下のように述べている

(ほとんど引用ですが)

 

「共喰いで田中作品を知った読者は、「犬と鴉」に戸惑い、恐らくは「難解」と感じるだろう。実際に、この作品の解釈は難しい。戦争、鯨のようなヘリコプター、水道管、壕、黒い犬、図書館、鴉、・・・と、短篇の規模に比してイメージは過剰であり、それらの散らかり具合の故に、個々の印象が相殺されている感もある。しかし、むしろそこに意味を見ようとするところから、本作の読解は始まる。

「犬と鴉」の全体を支配するのは、「悲しみ」に満たされない状態を、「空腹」とする奇妙な発想である。その理解の手順としては、三段階ある。

 

常識的には、読者はどうして、小説に、飢えたように悲哀を求めるのかという問いと解釈することが出来るだろう。

第二次大戦を連想させる「敗戦」が設定されたこの小説の、例えば、「人間はなんといったって、悲しむために戦争するんだ。」という作中の台詞は、「人間はなんといったって、悲しむために戦争を題材にしたフィクションを求めるんだ」という意味になる。

そもそも、作中の戦争は飽くまで寓話的であり、だからこそ、代替可能性がある。戦争でなくても、人をそんなふうに涙させるものであれば、構わなかったのではないか?

 

第二段階としては、やはりこの「人間はなんといったって、悲しむために戦争をするんだ。」という台詞を、文字通りに理解してみなければならない。

難しいのは、「ために」という言葉である。つまり、戦争は飽くまで「悲しみ」の手段だというのである。戦争が引き起こした悲劇を克服するために、徹底した「悲しみ」こそが手段として求められている、というのではない。逆である。

第三段階は、則ち、読者ではなく、作者の田中氏こそは「悲しむために戦争をする(=戦争を書く)」という理解である。前提として、「悲しみ」はある。そして、それを文学的に実現するために、必要とされたのが「戦争」だった、と。

この解釈に可能性があるのは、作者がこの「戦争と哀しみ」という巨大な問題を、「悲しみを知らないまま図書館に立て籠って」いる「父」との対面という、極端に私的な主題へと収斂させていくためである。

 

主人公の父は、ほとんど「戦争」そのもののように暴力的である。図書館の周りには、「父に追われ、父から逃げようとし、父に斬られた人たち」の遺体が散乱している。そして、作中の戦争そのもののように、「悲しみを知らない」。つまりは、リアリティを欠いている。――なぜか?

そもそも、この主人公は、穴倉に籠って、戦争とは直接向き合わない。その彼が、戦争の等価物としてアクセスしようとするのが父であり、占領された書き言葉の要塞である図書館である。「悲しむために、戦争をする(=戦争を書く)。」とは、畢竟、「悲しむために、父を書く。」と同義である。

父は主人公と対峙し、主人公から逃げ出し、そして、主人公に抗う。

「犬と鴉」では、父の父――つまりの手紙による「父癒し」が試みられる。系譜にアクセスすることによって、父と子という閉ざされた関係性が相対化され、ちちもまた子、という単純な客観性が確認される。それを実現するものこそが、言語の他者性であり、そこにこそ、この小説の「戦争=父」のリアリティが賭されている。

 

この感覚は、そのまま「血脈」、「聖書の煙草」に引き継がれる。この二作は、いわば「犬と鴉」のヴァリアントである。

幾分、寓話的だが、一応、リアリズムのスタイルで書かれておる「血脈」は、天皇制の問題に接続させられてしまうかもしれない。その可能性を否定しないが、やはり、その他全ての私的な家系の物語として読む方が、遥かに面白いだろう。とりわけ、「似ている」という遺伝の問題は、「聖書の煙草」を経て、「共喰い」にまで至る田中文学の重要な主題である。

「聖書の煙草」は、本書の中では、最も純度の高いリアリズムである。やはり父は不在であるが、その無職の息子と母親との関係は、「犬と鴉」よりもずっと生々しく描かれている。やはり祖父にまつわる戦争が導入され、それがおしゃべりの対象となっており、他方で、「犬と鴉」の図書館は、父の残した「本棚」となっている。そして、「合戦でたどる日本の歴史」なる本が、「悲しみ(=現実)」を欠いたまま、客観的な書き言葉として、そのおしゃべりに裏側から張り付いている。

 

主人公は、その繋ぎ目を、行動によって生きようとする。その時、母との関係が抑圧しつつ搔き立てている性欲は、主人公に犯罪を指嗾する。だからこそ、いずれ乗り越えられるべき問題であると私は思う。

最初から殺すべき父が不在の世界で、言葉によって、半ば祈るように父を創造し、また不在へと投げ返す。その一見踏もうとも見える循環を通じて、主人公が必死で変容しようとする。

田中文学が目指す新しい神話を理解する上で、本書は重要な手懸かりとなるだろう。

 

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「三島由紀夫論」

2023年月4月5日発行

著者:平野啓一郎

発行所:新潮社

(多くを三島と関連付けていたが、ここでは省略した)


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