朝井リョウの「正欲」(新潮文庫:令和5年6月1日発行、令和5年8月30日8刷)を読みました。
「この世界で生きていくために、
手を組みませんか」
これは共感を呼ぶ傑作か?
目を背けたくなる問題作か?
浅井リョウが放つ、最高傑作。
自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな――。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繋がりは、”多様性を尊重する時代”にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分に戻れない、気迫の長編小説。
妻と息子の三人で暮らす検事の寺井啓喜、ショッピングモールの寝具売り場で働く桐生夏月、大学の学園祭実行委員の神戸八重子の三人の視点で動いていく物語。後半はこれに夏月の中学時代の同級生の佐々木佳道、八重子の同級生の諸橋大也の視点が加わる。が、一見、なんら関係がないと思いきや、とある秘密をめぐり、やがて、静かに、そして不気味に絡み合っていく。
「正欲を引き受ける―浅井リョウは意地悪だ」というタイトルで解説を書いているのが臨床心理士の東畑開人です。最初から「解説を引き受けて、ほとほと後悔していた。一読して、すぐにわかった。この物語は手に余る」と。「正欲に突き動かされている私が、どうやったら正しい解説を書けるというのか」と困惑の表情を浮かべる。が、東畑は続ける
以下、「解説」より。
正欲は破壊的で、暴力的なのだ。それは他者を傷つけ、自己を見失う。いや、正欲がやっかいなのは出口がないことだ。正欲を批判するのもまた正欲であるように、多様性には多様性を否定する多様性の場所がなく、寛容は不寛容に対して不寛容にならざるをえない。呪いのようだ。私たちは正欲の外に出ることができず、誰かを傷つけることから逃れることができない。
性愛とは性を愛することでもあるけど、同時に性を通じて誰かを愛することでもある。同じように、私たちは「正しさ」を愛すると同時に、「正しさ」を通じて他者を愛そうとする。それを「正愛」と呼んでもいいのかもしれない。
正欲は一方で他者を排除し、破壊する。だけど同時に、他者を肯定し、深くつながることを可能にしてくれるものでもある。だから、正欲を否定し、抑圧するだけでは問題は解決しない。それでは私たちは誰のことも傷つけないけど、結局のところ一人ぼっちの宇宙で生きるしかなくなってしまう。
大人になるためには性欲を引き受けなくてはならない。性欲はときに他者を深刻に傷つけ、自己を損なう。それでも、性欲を恐れていては、他者を愛することも、自分を愛することもできない。私たちは動物でもあれば、人間でもある。この矛盾を引き受けて、なんらかの形でやりこなせるようになっていくことが成熟である。
同じように、正欲を引き受けねばならない。私たちはときどき正義に取りつかれる。小説の最後に佳道や大也が容赦のない断罪にさらされているように、正欲は暴走するとき神のように躊躇がなくなる。だけど同時に、正欲があるからこそ、私たちは他者とつながり、世界を少しでも良いものに変えていこうとすることができる。
この、神でも人間でもある自分と折り合い、付き合えるようになること、これがすなわち「正熟」である。
498ページの長編である。最後に本文から…。
「いなくならないからぅて伝えてください」 夏月は突然、そういった。「夫が何も話さない以上、私から話せることもありません。その代わり夫には、いなくならないからって、伝えておいてください」 一体、何で繋がっていると言うのだろうか。――いなくならないから、って、伝えてください。逮捕された夫と同じ言葉を唱えた妻を、啓喜はみつめる。子どももいない。家も建てていない。経済的にお互い自立している共働きの夫婦。その状態で、夫は性犯罪で捕まった。しかも児童ポルノ所持という、世間的に最も嫌悪される種類の容疑で。
それなのに、どうして一緒にいたいと思えるのだろうか。どうしてお互いに、いなくならないことを誓い合えるのだろうか。一体何で繋がれば、そんなふうに想い合えるのだろうか。
「検察のほうで伝言を承ることはできません。弁護人に頼んでください」 越川の言葉に、夏月が「そうでしたね」と立ち上がる。
浅井リョウ:
岐阜県生まれ。小説家。『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。『何者』で第148回直木賞、『世界地図の下書き』で第29回坪田譲治文学賞、『正欲』で第34回柴田錬三郎賞を受賞。ほかの著書に『どうしても生きてる』『死にがいを求めて生きているの』『スター』などがある。