綿矢りさの「かわいそうだね?」(文藝春秋:2011年10月30日第1刷発行)を読みました。略歴は本の奥付を見ると、以下の通りです。綿矢りさは1984年京都府生まれ、早稲田大学教育学部卒業。2001年「インストール」で第38回文藝賞を受賞しデビュー。2004年「蹴りたい背中」で第130回芥川賞を受賞。ほか著書に「夢を与える」、「勝手にふるえてろ」がある。
僕はブログを始める前に「インストール」や「蹴りたい背中」を読んでますが、ブログには書いていません。「夢を与える」は2007年3月に読んで、その時、以下のようにブログに書き始めました。
ちょうど1年前の1月の中頃だったでしょうか、第130回の芥川賞と直木賞が決定したのは。芥川賞は、綿矢りさの「蹴りたい背中 」と金原ひとみ「蛇にピアス 」のダブル受賞でした。綿矢は1984年生まれ19歳、金原は1983年生まれ20歳の受賞、ということで、最年少の記録更新などという以上のインパクトを社会に投げかけました。もしかしたら、時代の大きな節目なのかも知れません。作品もファッションも振る舞いも、見事に対照的な二人なので、「蹴りたい背中」と「蛇にピアス」を、ついつい比較したくなります。
「かわいそうだね?」は、「かわいそうだね?」(週刊文春:2011年2月10日号~5月19日号)と「亜美ちゃんは美人」(文學界:2011年7月号)の短篇2篇からなっています。ここでは「かわいそうだね?」について書いておきます。
「かわいそうだね?」は、「くらりと揺れて貧血かと案じ、家の本棚にしがみついたら、本棚も、壁にかけたカレンダーも揺れていて、ようやく自身だと気づくのだった」という書き出しで始まります。続けて「地震はおそろしい。こんなに簡単に揺らぐ東京もおそろしい。また揺れた、これで月に何度目? なぜか朝方が多い。」とあり、意識して「東京もおそろしい」とあります。それはこの主人公が東京の人ではないからです。すぐ後に「私は地震がこわい。街なかで、職場で、地下鉄のホームで、いまここで地震が起こったらどうしようとおびえている。1995年の阪神淡路大震災を経験しているせいだ。あのころはまだほんの子どもで、もっとも被害の大きかった神戸ではなく、大阪に住んでいた」と、自身を語っています。
2011年3月11日の東日本大震災についての作家特有の予感があったのでしょうか。そうではなさそうです。「かわいそうだね?」は2011年2月10日号に掲載されていたのですから。しかし、この物語の最後にも地震についての書き込みがあります。主人公が彼氏の家で爆発した後、「みしみしと細かく家のきしむ音がしたかと思うと、部屋が揺れ始めた。暴れすぎて貧血を起こしたのかと思ったが違う。本当に揺れている。周期の長い、横揺れの地震だ」とあります。この部分は、5月19日号に掲載されているので、たぶん、3・11を体験した後に書かれた文章だと思われます。
地震妄想時にいつも同時に思い浮かべるのは、私を助けてくれるヒーローの存在。彼さえいればもう安心、弱った私を抱きかかえて安全な場所へ連れていってくれる男の人の存在。・・・それは恋人の隆大に当たるわけだけれど、このごろ本当に彼が私を助けてくれるのかどうか、樹理恵は疑問に思っています。でも「大地震が起きれば、隆大は私じゃなくてアキヨを助けにいくかもしれない。ねえ、あなたはどっちの女を助けるの」。
主要な登場人物は、語り手で主人公の樹理恵、その恋人の隆大、そして隆大の元カノのアキヨの3人です。まあ、早い話が三角関係のもつれの顛末記のようなものです。都心の百貨店の婦人服売り場の優秀な店員で28歳の樹理恵、アメリカ育ちで向こうで働いていた隆大、帰国して間もないので日本語もおぼつかないときもあります。友達に誘われたバーベキューパーティで隆大と出会いました。なんと隆大にはアメリカで7年も付き合っていた恋人がいた。しかもその恋人、30歳のアキヨが突然帰国して、日本で就職できるまで、隆大のアパートに同居するという。樹理絵はしぶしぶ承知しますが、イライラが募ります。
「隆大の考えていることがまったく分からない。元彼女が恋人の家に泊まるのを許す女なんて、いるわけないじゃない」と樹理絵が嘆くと、社員食堂で一緒にお昼を食べていた後輩の綾羽は「先輩、男女間のもめごとって結構どぎついものですよ」と言います。「ナメてんのか、私のこと!って怒鳴って、ソッコー別れますね。新しい女と付き合ってるのに、過去のごたごたを引きずってる男って最悪」とまで言います。綾羽は普通の女の子よりもちょっとわがままなタイプだが、観察眼は鋭いし、見当外れは言わない。その彼女、「あの二人は、絶対やってますよ」と言う。樹理恵は、頭のなかに爆竹を投げ込まれたかのように、閃光と爆音で一瞬なにも聞こえなくなります。
「ごめんね隆大。あなたの嫌がることは極力したくないんだけれど、もう衝動を抑えられない。樹理恵、突撃します!」と、日曜の昼下がりに、隆大の安アパ-トに樹理恵は乗り込みます。隆大は出かけていて、アキヨだけがいました。アキヨは話の通じないモンスターのイメージになっていたが、会ってみれば普通の人間に見えます。お昼にうなぎのソテーをごちそうになります。もしかして私とアキヨさんは、一人の男を取り合っているのではなく、共有しているのではないか、と思ったりします。隆大の良いところを話し合い、共感し合いたい気持ちになったります。考えを改めよう。私は、助けてあげるべきだ。アキヨさんは、かわいそうなんだから。
クリスマスイブに隆大がプレゼントを持って樹理絵の家に来ます。1月は休みが取れそうだというので、奥多摩の温泉へレンタカーを借りて2人で行きます。朝風呂へ行った隙に、樹理恵は隆大のケイタイの履歴を見てしまいます。ほとんどがアキヨからのメールでした。樹理恵からのメールはたったの一通、しかも名前ではなくカノジョさんと呼んでいました。アキヨさんのなかには樹理恵なんか存在していないみたいでした。綾羽が疑っていた二人がやっている証拠は見つからなかったが、もっと濃密な関係をかいま見てしまった。
突撃、開始、再始動だ。私だって負けてはいられない。隆大の部屋は変わり果てていました。アキヨの荷物が部屋全体に広がっています。男女の共棲みの気配が部屋の隅々まで染みついて、なまなましい。リビングの鴨居にアキヨが洗濯してまだ湿っているパンツが干してある。頭のなかで、なにかがつながる音がした。いままで故意につなげずにおいた線が、遂につながって電流が行き渡り、充電完了!封印していた大阪弁が炸裂、「どないせっちゅうねん!」ああ、ばかばかしい。私が隆大に好かれるため、彼を追い詰めず、自分まで変えようとして、限界まで我慢してき。た間、この女は私の彼氏の部屋でパンツを干していた。
「ちょっと樹理恵ちゃん、いくら嫉妬してるからって、私に暴力をふるったり、この部屋のものをこわすのは、間違ってると思うんだけど。はっきり言って、普通じゃないよ」。「おっ、言うてくれるやんけ。でもお前にだけは、普通かどうかで説教されたないわ。別れた男の家に何ヶ月も居候すんのが、普通なのかオラ」。隆大は大阪弁がきらいだった。大阪弁はキツい感じがしていやだ、と私の出身地を知る前に話していました。その瞬間から封印していた大阪弁。が、ついに今日、解き放たれてしまいます。隆大の愛を勝ち取ろうと自分を偽っていたが、でもそれは間違っていた。ドアを開ける音がして、隆大が帰ってきた。「樹理恵、どうしてここに?」。「りゅうちん、樹理恵さんの様子がおかしいの」とアキヨさん。
「なんつうか、愛してくれるなら、もっとうまくやれよ。おまえの采配がもうちょっとましやったら、ここまで苦しまずに済んだやんけ。最終的に、女二人とも泣いとるやないか」と樹理恵が言うと、隆大の顔色が変わり、私はたまらず涙が出てきた。最後くらい隆大の前では可愛い女でいたかった。「恋愛感情からんだややこしい男女三人の間柄で、うまいことできるわけない。なにかを失わないと。なにかを得られないなんて、人生の基本や。アメリカでは違うんか?そやったら日本で覚えなおしや」。隆大とアキヨは部屋を出て行きます。「あ~あ、やっちまった。ついに隆大と別れてしまった」。みしみしと細かく家のきしむ音がしたかと思うと、部屋が揺れ始めた。暴れすぎて貧血を起こしたのかと思ったが違う。本当に揺れている。周期の長い、横揺れの地震だ。
アキヨのミニだんすを探ったら、案の定、メンソールの煙草とライターが入っていた。偶然、私の好きな銘柄。気が合うね、私たち。同じ男を取り合ったしね。一本に火をつけてふかぶかと吸い込むと、懐かしい動作をひさしぶりにこなしたことに、至福の喜びを感じた。煙草は裏切らない。「あー、うめぇ」 まずは、この一服。一つ吸い込むごとにニコチンが身体のすみずみまでゆきわたって、指の先がちりちりふるえるほどの快感。2本いっぺんに吸いたいくらいだ。視界が煙でにじむ。この気持ちをうまく言い表している故郷の言葉があった。なんだっけ。残念だけど、うまくあきらめられる、いいあんばいに現実逃避できる言葉。あ、思い出した。 「しゃーない」。
「かわいそうだね?」は、第6回大江健三郎賞受賞作です。
2012年5月1日発行
発行所:株式会社講談社
第6回大江健三郎賞受賞作発表
「小説のたくみさと成熟」
大江健三郎
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