第169回令和5年上半期芥川賞決定発表
芥川龍之介賞
「ハンチバック」 文學界5月号 市川沙央
第169回芥川龍之介賞選考委員会は7月19日に東京・築地の「新喜楽」で開かれました。
小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、平野啓一郎、堀江敏幸、松浦寿輝、山田詠美、吉田修一
の9委員が出席して討議を行い、頭書の通り受賞作を決定しました。
受賞作以外の候補作は次の4作品です。
石田夏穂「我が手の太陽」(群像5月号)
児玉雨子「##NAME##」(文藝夏季号)
千葉雅也「エレクトリック」(新潮2月号)
乗代雄介「それは誠」(文學界6月号)
以下、芥川賞選評を載せますが、
紙面の都合上、市川沙央の「ハンチバック」に限って載せることとします。
松浦寿輝「名前の物語」
市川沙央「ハンチバック」は、重度の障害を抱えながら生きる一女性の日常と心象風景を描く。わたしなどがこれまで遭遇したことも想像したこともなかった人生の姿がなまなかしい文章で活写されており、読者の情動を激しく攪拌せずにおかない衝撃的な内容になっている。結末部分に異質な物語断片が猪突に置かれていることに疑問を示す向きもあったが、こうしたフィクションを生きることじたいが、主人公の人生の現実そのものにある切実な深さと広がりの次元を与えているとわたしは読んだ。
ただ、フェラチオの挿話をはじめ、複雑な層をなしているはずの主人公の心象の、いちばん激しい部分を極端に誇張する露悪的表現の連鎖には辟易としなくもない。この辟易感は文学的な感動とはやはり少々異質なものではないか。差別と正義の問題を楯にとって読み手に踏み絵を課してくるがのごとき、恫喝的な書きぶりと取られるのが作者の本意ではないにしても、である。
小川洋子「内なる他者」
「ハンチバック」の釈華が妊娠と中絶を望むのは、自らの肉体に潜む神秘に触れたい、などという生易しい思いからではない。自分より貧乏で不幸で頭の悪い子たちのレベルに追いつき、彼女らを見下したいのだ。ヘルパーの田中に対しては、お金の力で優位に立とうとする。彼女が見せる生々しい人間臭さは、困難な肉体を吹く飛ばすほどのエネルギーに満ちている。
しかし、田中の精液を飲み込んで死にかける姿には、常に生死の境に立たされている彼女に堆積した、底知れない疲労が透けて見える。いくら毒を吐いても無視しきれない堆積物が、ふらふらと頼りなく浮遊し始める。
もう一人の紗花が現れ、釈華の像が奥行きを増すラストには、内なる他者が、書く自由を手に入れ、飛翔する瞬間が刻まれている。
奥泉光「選評」
・・・だが、市川沙央「ハッチバック」は、そうした技術的配慮を超えたところで、力あるテクストとして屹立しているのはたしかで、本作の受賞には全く異論はない。技術ということについていえば、作者にたしかな小説技術のあることは、冒頭の「ネット記事」を一読しても明らかだ。しかし本作は、作品の完成度や技法の配慮から離れた、言葉の動きになにより力があったといえるだろう。たとえば、唐突に旧約聖書「エゼキエル書」からの引用が置かれて、これははずした方がよいのではと、テクストの均整の点からは考えられそうだけれど、作者には置くべきとの判断があったに違いなく、そうした直観に身を委ねて魅力あるテクストを紡ぎ出す作者の才には特別なものがあるのかもしれない。
平野啓一郎「他者の捉え方の差」
私がしかし、更に高く評価したのは「ハッチバック」だった。難病当事者としての実人生が色濃く反映された作品だが、健常者優位主義の社会が「政治的に正しい」と信じる多様性に無事に包摂されることを願う、という態度とは根本的に異なり、障害者の立場から社会の欺瞞を批評し、解体して、再構成を促すような挑発に満ちている。文体には知的な重層性があり、表現もよく練られていた。殊にリプロダクティヴ・ライツに於ける障害者の位置づけを産む側、出生前に殺される側の両方から論じ、「殺すために孕もうとする障害者」の物語として構想した点、それを自らの瀕死の”事故”と表裏に描いた点、セックスと金銭を巡る倫理をパロディ的に先鋭化してみせた点など、本書が突きつける問いの気魄は、読者に安易な返答を許さない。
吉田修一「選評」
「ハンチバック」、とにかく小説が強い。一文が強いし、思いが強い。他の作品が木造だとすれば、これだけ鉄筋のようだ。
弱者である作者が物語を書いているはずだが、ここには微塵の弱さもない。というか、その弱さこそが強さなのだと見事に反転させてみせる。
当初この強さは作者が当事者ゆえかとも思ったが、そうではなく、ここには成熟があるのだ。作品の成熟はもちろん、作者自身の人間的成熟が、この強さを、さらには毒気のあるユーモアを生んでいる。
物語の終盤、主人公はある意味「命懸けの抽送(フェラチオ)」を行うのだが、この場面を描くにいたるまでの作者の覚悟と生き様と胆力を思うと、今作の重要性がさらに明らかとなる。
僕たち(私たち)は多様性をどこまで受け入れられるだろうか? 理解できるだろうか? などという昨今の生ぬるい上から目線の問題提起を「ハッチバック」は小気味よく一蹴してくれる。
彼女/彼らは理解や共感など求めていない。ただ不平等を是正してほしいだけなのだ。
島田雅彦「生存のための不服従」
先ずは「ハッチバック」から。障害者が礼儀正しい善人である必要などない。健常者の中には好んで愚行をなす者が少なくないが、障害者も堂々と愚行権や表現の自由を行使すべきである。また、健常者は一方的に障害者を憐れみ、自分の常識を押し付け、無意識に差別するが、障害者はそれに抵抗しなければ死ぬし、抵抗しても死ぬ。「私」は自分の足で歩けなくても、自発呼吸ができなくても、、職業を持ち、読みたい本を読み、妄想を逞しくし、妊娠し、中絶する自由を謳歌する。権利行使はそのまま生存を賭けた戦いとなる。「私」が繰り出す悪態のカデンツァは露悪を突き抜け、独特のヒューモアを醸し出し、悟りの境地にさえ達している。コトバも骨も屈折しているが、心は不屈だ。自発的服従者ばかりのこの国で不服従を貫く「私」の矜持に敬意を払う。相手の身長に合わせ、一センチ百万で合計一億五千五百万を費やし、妊娠、中絶の暴挙に打って出た後のエピローグでは、一人の小説家の誕生が仄めかされている。こうなったら、開き直って書いていくしかないという決意の表明と受け止めた。
山田詠美「選評」
「ハンチバック」。障害者に受賞させて話題作りをする芥川賞・・・みたいな文言をあちこちで目にしたが・・・はあ? いったい誰に向か・・・(以下略)。文学的に稀有なTPOに恵まれたのはもちろん、長いこと読み続け、そして書き続けてきた人だけが到達出来た傑作だと思う。文章(特に比喩)がソリッドで最高。このチャーミングな悪態をもっとずっと読んでいたかった。<読書文化のマチヅモ>のくだりは痛快。ちなみにそう見られがちな私は、ただの紙偏愛者。これはフェティシズムである。
川上弘美「知悉」
「ハンチバック」は、わたしにとって「知らなかったこと」が満載された小説でしたが、この小説にある「知らなかったこと」を、わたしはとても身近に感じたのです。その感じわかるわかる、という意味での「身近」ではなく、むしろその正反対、この小説を実感できる人間はほとんどいないはず、なのに、ここにある「知らなかったこと」は、とても身近だった。なぜそのようにか感じたかといえば、それは作者の技量がすぐれていたからです。客観性ある描きよう、幾重にもおりたたまれているけれど確実に存在するユーモア、たくみな娯楽性。小説、というものの勘どころを、知悉している作者だと思いました。一番に推しました。
堀江敏幸「加速度のある言葉の運び」
市川沙央さんの「ハッチバック」には、重度身体障害者として涅槃で生きてきたという語り手の自覚と叫びが、命を賭したユーモアをまじえて鋭利に表現されている。出産ではなく妊娠と堕胎までという自己認識のあり方。重量のある紙の本の暴力性。常識的な思考をかきまわす加速度のある言葉の運びは、主人公が置かれている状態によってのみ生まれたのではなく、小説が小説として生み落としたものだ。結末は全体を相対化する重要な装置であると同時に、書かれた人物の思考から外へはみ出した意思の光だと受け取りたい。
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